高木彬光 妖術師  目 次   奇妙なお土産《みやげ》   四月馬鹿の殺人   一匹の蟻《あり》   犯罪の環   脱獄死刑囚   火の雨ぞ降る   食人金属   妖術師   廃《はい》 屋《おく》   氷の花   薔薇《ばら》の妖精  奇妙なお土産《みやげ》     一  山本道子は、ひとりで夕食をすませると、新聞のテレビ番組欄に眼を通しはじめた。  夫の武は、販売促進会議とかで、おそくなるという話だった。新婚当初は、夫の帰りを一刻千秋の思いで待ちわびたものだが、結婚四年目の今日では、とてもそういう気持にはなれない。夫は早く帰って来ても、どうせテレビの前に坐《すわ》りこんで、自分だけがナイターの実況に夢中になるだけなのだ……倦怠《けんたい》期の症状もかなり進行しているといってよい。  道子は、新聞をほうり出して溜息《ためいき》をついた。あいにくいまは、メロドラマもホームドラマもやっていない。ナイターに活劇、それに大して有名でもない歌手が出ている歌謡曲でどれも見る気になれなかった。これでは時間のつぶしようもない。毎月とっている婦人雑誌も、とっくに隅から隅まで読んでしまった……  そのとき、道子は部屋の片隅においてある雑誌にふっと眼をとめた。この雑誌は夫が毎月読んでいるもので、大半が推理小説で埋まっている。こわい話の大嫌いな道子は、これまでろくにページもくったことはなかったが、いまはあんまり退屈なので、つい眼を通して見る気になった。好きな番組が始まるまでのひまつぶしに、短いものを一本ぐらい読んで見ようかしら——と思ったのである。  目次を眺めていると『青髭《あおひげ》の妻』という題名がいちばん先に眼についた。内村悦子という女流作家の作品だった。 『山下絹代は、夕食の支度をととのえて、夫の武雄の帰りを待ちわびていた……』  この小説は、こういう文章で始まっている。道子は思わず眉《まゆ》をひそめた。  山下武雄という小説の中の夫の名前は、自分の夫の名前によく似ている。もちろん『山下』とか『山本』とかいう姓は世間にはざらにあるし、『武雄』にしても『武』にしても、ごくありふれた名前なのだ。偶然の一致とさえいえないが、やはり小説を読むときには、自分なり知合なりによく似た名前が出て来ると、内容以外の興味が出て来る…… 「それにしても、この御夫婦は、結婚して何年目なのかしら?」  とひとりごとをいうと、道子は次の文章に眼を通した。 『絹代はいまの夫に満足していた。べつに美男子ではないが、あれこれとこまやかな心づかいを示してくれるし、仕事熱心な上に、なかなか器用で、日曜大工や、ちょっとした電気器具の修理など、家庭サービスもこまめにやってくれる』  自分の夫も、むかしはそうだった——と道子は新婚当時のことを思い出していた。もちろん、ステレオを組みたてたりするような器用さはいまでもかわらないが、家庭サービスのほうはさっぱりだめなのだ…… 『二人はおたがいに理解しあっている——と絹代は信じていた。おたがいに再婚だというハンディキャップが、自分たちにはかえってプラスに働いていると思いこんでいた。  前の夫は、見合い結婚だったが、どうしても好きにはなれなかった。夫が急死して、遺産や保険金が転がりこんで来たときには、正直な話、悲しさより解放感のほうが先だったくらいだった。武雄のほうも、結婚してから一年ぐらいで、事故で妻に死に別れたというのだが、そのことには深くふれたがらなかった。先妻のほうも決して良妻ではなく、たえずヒステリーをおこしては、彼を悩ましていたらしい……  ブザーが鳴り、絹代は顔いっぱいに微笑を浮かべて、玄関へとんで行った。 「おかえりなさい。疲れたでしょう」 「ああ、ただいま……」  光線のぐあいか、武雄の顔は妙に暗く見えた。 「たのまれたお薬、今日買って来ておきましたわ」  絹代の親類に薬屋が一軒あるので、薬はその店で安く分けてもらえる。一日中、セールスで歩きまわる武雄は、ビタミン剤や強肝剤《きようかんざい》を常用しているので、時々まとめて仕入れることになっていた。 「そうか、どうもありがとう……僕のほうも君にお土産《みやげ》があるんだ……」  武雄は、小脇《こわき》にかかえていた紙包みを開いた。中から出て来たのは一足のスリッパだった……』  女流作家というのに、ずいぶん無神経な書き方だと道子は思った。男女の仲で、少しでも相手に好意を持っていたら、足にはくものはプレゼントしてはならないというジンクスを知らないのだろうか?  しかし、推理小説というからには、何かの伏線であるのかも知れない。とにかく、もう少し読んで見ようと道子は思った。     二 『絹代もこの土産《みやげ》は不審に思った。スリッパなら家に何足もあるのに…… 「これはふつうのスリッパじゃないんだよ。ごらん、厚いゴムの裏がついているだろう」  武雄はてれくさそうに説明した。 「でも、ゴム裏のスリッパなんて、めずらしくもないわ」 「だけど、ふつうのスリッパは、こんなに底が厚くないだろう?」  いわれて見ればその通りだった。このお土産のスリッパには、まるでズック靴のような厚い底がついていた。 「きみが洗濯《せんたく》するときのために、買って来たんだよ。表のほうも防水加工で水をはじくようになっているんだ……」  武雄はちょっと真剣な表情になって、 「いつだったかの新聞に、風呂場《ふろば》の電気洗濯機が漏電《ろうでん》していて、それで感電死した主婦の話が出ていたろう。なにしろ、水というやつはよく電気を通すんでね……家庭に来ている電気はそんなに強いもんじゃないが、ショックで心臓|麻痺《まひ》をおこしたんだろうね」 「それで、あなたはこのスリッパを買って来て下さったの?」 「うん、これだけゴムの底が厚ければ、十分に絶縁作用はあるからね。君もあんまり心臓は丈夫なほうじゃないし、万一のことがあったらたいへんだと思ったんだ。電気洗濯機は風呂場へおくな——というけれども、こんなせまい家では、ほかに置場所もないしねえ」  絹代は思わず夫の胸に顔を埋めた。 「あなたって……ほんとうにやさしい、よく気のつくかたね……」 「まあ、うちの洗濯機にはアースもつけてあるから、そんな心配はないはずだが、念のために用心だけはしておこうと思ってね。僕だって、二度も男やもめになるのはごめんだよ」  冗談にまぎらわせながら、武雄は絹代を抱きしめた……』  なるほど、たしかにそういう新聞記事を見たことがあった——と道子は思った。  この家もせまいので、やはり洗濯機は風呂場においてある。この小説の中の夫と違って、自分の夫はスリッパなんか買って来てくれそうもないけれども、今度の休日あたりには、お尻《しり》をたたいて、ちゃんとしたアース線ぐらいつけてもらわなければ——と道子は思った。  少したよりない小説だけれども、やはり読書はどんなものでも何かの役にたつものだと思いながら、道子はその先を読み続けた。 『それから数日後のことだった。夫が甲府《こうふ》へ仕入れに出かけた留守の間に、絹代は友人の一人から、急に宝石の注文をうけた。  武雄は、店を持っていない。個人的な伝手《つて》をたどって売り歩く独立したセールスマン、この世界でいう「かばん屋」だった。甲府には宝石|研磨《けんま》業者や職人がたくさんいて、伝手によっては、どこよりも安く宝石を手に入れられる。そこで仕入れて、税金分だけ安く商売できるのが「かばん屋」の強みなのだ。中にはいかがわしい人間もないではないが、武雄はかなりのお得意も持ち、しっかりした商売をしていた。  ふつう、宝石というものは、一日二日を争って取引するものではないが、この友人の話では、特別な事情があるので大至急ということだった。  もちろん、儲《もう》かる話なのだし、友情にも傷をつけたくなかった。  絹代は、甲府での夫の宿泊先を聞いていなかったので困ってしまったが、幸いにこの前とどいた宿屋からの挨拶《あいさつ》のハガキが残っていたので、思いきって長距離電話をかけて見た。しかし、結果は意外なものだった。 「もしもし、山梨荘旅館ですか?」 「はい、さようでございますが……」 「そちらに、東京の宝石商の山下武雄は泊まっておりませんでしょうか?」 「山下さまでございましたら、毎度ごひいきにあずかっておりますが、ただいまはお泊まりになっておられません」  絹代はさすがに青ざめた。 「あの……甲府へまいりましたときには、いつもおたくのほうに泊まりますのでしょうか?」 「それはもう……山下様は、甲府へおいでのおりは、きまって手前どもを御利用下さいます。長年のお客さまでございまして……」 「どうも……」  絹代は電話を切ると、顔色をかえて考えこんだ。夫は昨日、甲府へ行くといって出かけたのだ……事故にあったとは思えないし、話が嘘《うそ》だったとしか考えられない……  それに、夫の客は女性が多いのだ。戸別訪問をして、甘いお世辞をならべているあいだに、どんなことが起こるかわからない……現に自分が、夫と知りあったそもそものきっかけも、彼から小さな宝石を一つ買い求めたことだった。  絹代は、血相を変えて、夫の部屋へ飛びこんで行った』  このあたりから初めて、道子はこの小説にひきこまれた。  夫の武は、ミシンのセールスマンで、やはり女相手の商売だった。ひょっとしたら……  道子は急に不安な気持におそわれ、『青髭《あおひげ》の妻』の続きを熱心に読みはじめた。     三 『夫は自分にいつもやさしい顔を見せながら、かげではいろいろな女をひっかけて歩いているのだろうか? 夫は、とんでもないくわせものなのだろうか? 宝石を餌《えさ》に使えば、ころりとまいる女は少なくないだろう……  そう思いながら、山下絹代は、怒りに燃える眼で、夫の部屋の中を見まわした。  浮気の証拠が、何か見つかるかも知れない。女の写真や所書きが、どこかにかくしてあるかも知れない……うっかり持って来た温泉マークのマッチがどこかにあるかも知れない——と考えると、頭の中が火をつけたようにあつくなった。  絹代はまず、押入れの中から非常持出用の手提《てさげ》金庫を持ち出して見た。しかし、とうぜんのことだが、この金庫には鍵《かぎ》がかかっている。かりに現金や宝石以外のものが入っているとしても——その中は、調べることは出来なかった。  それから絹代は、机の引出しを一つ一つと開けて、調べはじめたが、そこにもべつに変わったものは入っていなかった。  次に絹代は、ガラス戸の入った本箱に眼をつけた。そこには宝石に関する本や、商売の帳簿などが入っている。夫の仕事にはいっさい干渉しないつもりだったので、いままでは一度も手をつけたこともなかった場所なのだ……その習慣は夫もよく知っているから、何かの秘密をかくすには、絶好な場所といえるだろう。  絹代は、帳簿や本をかたっぱしからひきぬいて調べはじめた。何冊目かの本をあらためたとき、一枚の紙切れが畳の上におちた。  それは、古い新聞の切抜きだった。その見出しを見つめたとき、絹代の胸は激しく波を打ち出した。「人妻 入浴中に死亡」という活字が眼の前でかすんで行くようだった。  ——山下武雄さん(30)=東京都杉並区|久我山《くがやま》三ノ一五三、宝石商=は、十三日夜帰宅し、妻の文江さん(27)が、浴室で死亡しているのを発見届け出た。高井戸《たかいど》署の調べによると、他殺の疑いはなく、入浴中に心臓|麻痺《まひ》をおこして死亡したものと推定される。文江さんは以前から、あまり心臓が丈夫でないのに、熱い湯を好んでいたという。  住所は変わっているが、もちろん、この記事の山下武雄は夫に違いなかった。おたがいに、前の結婚のことにはなるべくふれないようにして来ただけに、絹代も武雄の前の妻の事故については、くわしい話を聞いたこともなかった。この新聞記事で初めて、曲がりなりにも真相を知ったのである……  絹代はふるえ出していた。夫が自分の心臓のことを心配して、あのスリッパを買いこんで来たのには、過去のこういう経験が頭にあったせいなのだろうが……それにしても、どうして、こんな新聞の切抜きをとっておいたのだろう? 一日も早くすべてを忘れてしまいたいのがふつうではないか?  それとも、文江が悪妻だったというのは嘘《うそ》で、ほんとうは相思相愛の仲だったのではなかろうか? しかし、それならなおのこと、こんな悲しい事件の記録を残しておく気にはなれないだろう……  そのとき、本箱の中のぬき出した本の裏側に、妙なものがかくされているのに、絹代は気がついた。ぬき出して見ると、それは紙包み——中に入っていたのは一足のスリッパだった。そしてこれは、あのお土産《みやげ》のスリッパと寸分違わないものだった。 「これはいったい……」  絹代はひとりごとをいいながら、風呂場《ふろば》へ立って、あのスリッパを持って帰って来た。この二足は、どう見くらべても、たしかにおなじ製品だった。夫はなぜ、同じものを二つ買って来て、しかもその一足をこんなところにかくしておいたのだろう?  そのとき、絹代は、いま風呂場から持って来たほうのスリッパの厚いゴム底で、何かがきらりと光ったのに気がついた。鋲《びよう》でもささったのか——と思って、それをあらためなおしたときには、心臓もとまりそうになったくらいだった。  それは鋲ではなかった。偶然にささったものとも思えなかった。小さな銅板のようなものが、厚いゴムの中に、しっかりとはめこまれていたのである。しかもそれはどうやらゴム底をつきぬけて、爪先《つまさき》の覆いのある部分に達しているようだった……  絹代はその中に手をつっこんで、恐ろしい事実を確認して見た。念のために、このスリッパをはいて見ると、たしかに足の裏にひやりと冷たいものがさわった。  絹代は真青になって、風呂場へとびこんで行った。その予感は、またしても的中していた。洗濯《せんたく》機のアース線はぷっつり切れ、ビニールの被覆をはぎとられた裸線が、タイルの上に接着していたのである……  夫が出かけてから、絹代はまだ一度も洗濯をしていなかった。だが、もし、このスリッパをはいて、電気洗濯機を使っていたら——裸線から流れ出た電流は、タイルの上の水を伝わり、スリッパの金属片から、体へ流れこんだかも知れない……その瞬間、心臓|麻痺《まひ》がおこって、先妻の文江とおなじような運命をたどることになったかも知れない……  絹代は、それこそ電流にでもうたれたように、全身をわなわなとふるわせていた。信じがたい、そして信じたくないことだが、夫は自分を殺そうとしているのだ……これだけの証拠がそろっていては、とうてい否定することは出来ない……  夫は出かける前に、そっとスリッパをすりかえておいたのだ。そして——いちおう器用な人間なら、洗濯機に何かの細工をして、ふだんよりずっと強い電流が流れるようにしてあるのかも知れない……  絹代は唇を血の出るように噛《か》みしめながら、いま一度、新聞の切抜きを見つめた。心臓麻痺——水——電気という連想は、すぐに頭にひらめいた。  それでは、この先妻の文江の死も、巧妙に偽装された殺人ではなかったろうか? 浴槽《よくそう》にうまく電流を流しこめば、どんなに心臓の丈夫な人間でも、いっぺんにまいってしまうだろう。その上で、悲歎にくれた夫の役割をうまく演じぬいて見せたなら、警察も医者も疑惑をおこさなかったとしてもふしぎはないはずなのだ……  夫は恐ろしい殺人鬼だったのか? 結婚しては女を血祭りにあげる青髭《あおひげ》のような男だったのか?  そのときまた、絹代はべつの疑惑に思いあたった。結婚してから三か月ほどたったとき、武雄は商売の資金がちょっと不足したのでいくらか融通してもらえないか——と遠慮がちに切り出したのである。そのとき、絹代は、夫婦の間じゃないの——といって、前の夫の保険金をほとんど全部、渡してやったものだった。その金が、今までもどって来なかったことはもちろんだし、くわしい使い道についても一言の説明さえなかったのだ。  いま考えて見ると、武雄は計画的に、金を持っていそうなオールドミスや未亡人をねらっていたのではないだろうか? 宝石のセールスマンというのは、その目的にはおあつらえむきの商売ではないか? この文江という女も、そして自分も、まんまと彼の罠《わな》におちたあわれな犠牲者だったのではないか? そして、この新聞の切抜きは、彼にとってはいわば勝利の記録のようなものではないか?  あまりにも恐ろしい想像だった。何度も、絹代はすべてが自分の妄想《もうそう》だと、自分にいい聞かせようとした。しかし、この二足のスリッパは絶対的といいたいくらいの証拠だった。  長いあいだ、身も心も凍りつくような思いで、考えこんでいた絹代は、やがて大きくうなずいた。そして、重大な決意を胸にかくしたまま、何くわぬ顔で、夫の帰りを待つことにしたのだった……』     四 「まあ、呆《あき》れた……」  ここまで読んで、山本道子は思わずひとりごとをもらした。 「わたしなら、こんな家からはすぐ逃げ出すわ。まあ、わたしはこの女の人みたいに金持じゃないから、心配もないけれど……だいいち、うちの人じゃ、いくら何でも、こんな芸当はできないわ……それにしても、この絹代という人は、いったいどうするつもりかしら?」  口の中で、こんなことをつぶやきながら、山本道子は急いで小説の続きに眼を走らせた。 『その翌日、武雄は緊張した表情で家へ帰って来た。 「あなた、お帰んなさい」  絹代はいつもと同じように、いそいそと夫を迎えた。 「甲府のほうの仕入れはうまく行きまして?」 「うん……」  心の中ではどう思っているか知れないが、武雄もここで動揺するほど、へまな役者ではなかった。 「少し汗になったから着がえをしよう」  と何気ない調子でいい出した。 「ごめんなさいね。あなたが出かけてから、わたし少し熱っぽくて……お洗濯《せんたく》はしなかったのよ。このあいだ、洗っておいたほうを着てね」  絹代はこう答えて、夫の反応を見ようとしたのだが、武雄は眉毛《まゆげ》一本動かさず、 「そうか……体のぐあいが悪いときには、無理をしちゃいけないからね」  と、ふだんと何のかわりもない、やさしい口調で答えた。絹代は、この夫に対する憎悪《ぞうお》を爆発させたくなるのを必死におさえた。そして、一世一代の大芝居を打つつもりで、甘えたそぶりを見せると、 「ねえ、あなた……今度はお土産《みやげ》を買って来て下さらなかったの? お出かけのとき、甲州《こうしゆう》葡萄《ぶどう》でも買って来よう——といってらしったのに……」 「ああ、そうだったね。ただ、今度はちょっと忙しくって、その暇がなかったんだ。この次にはきっと買ってくるからね……」 「いいのよ。ほんとうはお土産なんかいらないの。あなたさえそばにいて下されば……」  絹代はそういいながら、心の中で最後の決断を下した。これまでは欠かさずお土産を買って来た夫が、今度にかぎってそうしなかった理由はただ一つしか考えられない。死ぬはずの人間に土産などいらないのだ。そして、この夫は、甲府へ行くと称して、どこかで新しい獲物をあさっていたのだろう…… 「ところで、きみ、体のほうはもうほんとうにすっかりよくなったのかい?」 「ええ、もう大丈夫……明日からはお洗濯だって出来るでしょう」 「そうかい。実は明日の晩、業者仲間の集まりがあって遅くなりそうなんだ。でもきみの体の調子が悪いなら——と思ってね……」 「だめよ。そういう義理は欠かしちゃいけないわ。わたしはこの通り、すっかり熱もひいたし……ただ、あなたはあまりお酒に強くないから気をつけてね」 「ああ、わかっているよ」  武雄は微笑して答えた……』     五 「まあ、何と恐ろしい夫婦かしら」  山本道子はそうつぶやきながら、ちょっとぎくりとした。考えて見れば、自分たちの夫婦生活の中にでも、これと似たような場面はいくらでもあるのではないか? ただ、これほど極端な場合ではないというだけで……  何となく、不安な気持におそわれながら、道子はこの小説の結末の部分を読みはじめた。 『山下絹代は、かろやかなメロディを口ずさみながら、ひとり楽しく夕食をすませた。  もうそろそろ、宴会が始まる時分だ。そして間もなく、夫の武雄は突然ひっくりかえって悶絶《もんぜつ》し、大さわぎになることだろう。その嫌疑《けんぎ》は、同席している仲間の業者の誰《だれ》かにかかるだろう。宝石の取引をめぐる微妙な問題が、殺人の動機だと考えられるだろう…… 「ねえ、あなた……わたしは以前、薬局につとめていたのよ」  絹代はひとりごとをいうと、甲高《かんだか》い声で笑った。酒に弱い武雄は、宴会となると、かならず途中で強肝剤《きようかんざい》をのむのだ。もちろん、今夜も出がけに自分がわたした錠剤《じようざい》を、何とも思わずにのむに違いない。だが、胃の中で錠剤の糖衣がとけてくると……  絹代にとっては、それも難しい細工ではなかった。錠剤を二つに割って中身をえぐり出す。そこに青酸カリをつめて、カゼインをまぜた溶液でもと通りにつなぎあわす、ただそれだけのことだった。  絹代は、最初の恋人に失恋した直後には、自殺しようかと思いつめたものだった。そのとき、手に入れた青酸カリを捨てずに残しておいたのが、とんだところで役にたったのだ。  絹代は、勝ち誇ったように笑いつづけた。 「わたしだって、あなたとおなじ再婚なのよ。前の主人が死んだときには、ちょっとした財産を手に入れた経験があるのよ……だから黙って逃げ出すなんて法はなかったのよ。あなただって、そう思うでしょう?」  今度の夫は、自分のために保険金などは残していてくれそうもなかった。しかし、それをおぎなってあまりあるものがある。商売ものの宝石が……  絹代の眼の前では、ダイヤが、ルビーが、サファイアが、オパールが、虹《にじ》のような光彩をはなって乱舞していた。それは大半、銀行の貸金庫にあずけてあるから、夫の生きているあいだは手をつけられないが、死んでしまえば、合法的に自分のものになるはずだ……  絹代はようやく、虹のような幻想から自分を切りはなした。いまからあまり興奮していてはまずいのだ。まだまだ芝居の幕は開かない。間もなく、夫の死を知らせる電話がかかって来るだろう。自分はとうぜん、気が狂ったように驚いて見せ、現場へかけつけて悲歎の涙にくれて見せなければならない……おちついて、うまくやらなければ……  絹代は立ち上がって、テレビ台のほうへむかった。知らせが来るまで、のんびりしていようと思ったのである。しかし、テレビに組みこまれたアンテナをのばそうとしたとき、絹代は思わず悲鳴をあげた。  金属棒から、物すごいショックが、一瞬に伝わって来たのだった。  夫の武雄が、新しい小細工をしておいたのか——それとも偶然、テレビが故障していて、アンテナに電流が流れていたのか——どちらかは絹代にもわからなかった。  電流を受けた瞬間、そのショックのために、あまり丈夫でない絹代の心臓は、完全に動きを止めてしまったのである。心臓|麻痺《まひ》——それが山下絹代の死因だった……』  小説『青髭《あおひげ》の妻』はそこで終わっていた。山本道子は、雑誌をほうり出して溜息《ためいき》をついた。どうも気にいらない結末だった。絹代というヒロインが、途中で悪女に一変する構想もいただけないと思ったのだ。推理小説をあまり好まない道子には、ヒロインは恐怖と苦悩にうちひしがれた美女で、それを救ってくれる青年紳士でも登場するような物語でなければ面白くはなかった。 「まあ、そんなことはどうでもいいけれど」  道子はひとりごとをもらした。この小説のおかげで、何となく不安な気分にとらわれたことは事実だった。人物の名前が似ていることと、物語の中の夫が、女相手の商売だ——ということが、重いしこりとなって、胸の中によどんでいたのである。 「まさか……でも、ひょっとしたら……」  道子は急にいても立ってもおられないような気分になって来た。そして、しばらくためらったあげく、がまん出来ずに、電話のほうへ飛んで行った。そして、夫のつとめ先のミシン会社の営業所を呼び出した。  かなり長いあいだ、ベルが鳴りつづけるのを、道子はいらいらしながら待ちつづけた。  ようやく、電話口には、宿直らしい男が出て来た。 「あの……わたくし、山本武の家内でございますけれども、山本はまだそちらにおりますでしょうか?」 「山本さんなら、定刻に帰ったはずですよ」  とりつく島もない返事だった。 「あの……販売促進会議というのはなかったんでしょうか?」 「さあ、私は何も聞いていませんが……あるとしたら、どこかのレストランで、飯でも食いながらということになっているかも知れませんね」  投げやりな調子の返事だった。 「どうも……ありがとうございました……」  道子は力なく受話器をおいた。そして、自分の妄想《もうそう》を何とか吹っきろうとした。  結局、小説と現実とは、ぜんぜんかけはなれたものなのだ。自分の夫は、ごく平凡な男にすぎないのだ。自分たちの生活も、倦怠《けんたい》期には違いないけれども、特に波風もたたない平穏さを保っているのだ……  ただ、現在のような状態が、いつまでもつづくのは、やはり好ましいことではなかった。夫にしても、いつどこで、妙な浮気心を出さないともかぎらない。今日の会議にしたところで、会社外のどこかで行われた——というのはほんとうかも知れないが、ひょっとしたら、作り話なのかも知れない…… 「ここらで少し考えなおせ——ということなのかも知れないわね。このところ、わたしもあんまりサービスしないで、文句ばっかしいっていたし……」  道子は思わずひとりごとをいった。そして今晩あたりは、新婚時代の気分を思い出して夫をやさしく迎えてやろうかと思った。  それに——もういいかげん、子供も生まれていいころだった。最初のうちはまだ早すぎると思ってセーブしていたのだが……  道子はちょっと頬《ほお》をそめ、鏡台の前に坐《すわ》ってかるく化粧をなおした。最近では、外出の時ぐらいにしか使わない香水もちょっぴりふりかけた。  そのとき、ブザーが鳴った。道子は顔いっぱいに微笑を浮かべて玄関へとんで行った。 「おかえりなさい……」 「ただいま……」  夫の武は、妙に表情をこわばらせ、作ったような笑いを浮かべていた。 「おまえに、お土産を買って来たぞ」 「お土産?」 「うん、これだ。特製のスリッパだ」  山本武は、小脇《こわき》にかかえていた紙包みを開けながら言葉をつづけた。 「風呂場で、電気洗濯機を使っていた主婦が感電死したという話を聞いてね。それで……」  四月馬鹿の殺人  推理作家の大城雄作は、この機会を十年待ちつづけていた。そして、その犠牲者は誰《だれ》でもよかったのだ。彼の知っている人物なら。  こういうと、彼が商売がら、何か巧妙な完全犯罪の手口でも考え出して、十年その計画に磨《みが》きをかけながら、実行の機会を待っていたように聞こえるかも知れないが、事実はそれほど重大なことではない。  ただの悪戯《いたずら》——それも四月一日に、どうすればうまく、人をだませるかということだった。  だから十年といっても、その機会はわずか十回しかなかった。毎年三月なかばになると、彼は真剣にこの計画を考えるのだが、結局はうまいアイデアがうかばなかったり、たまに面白い着想が出ると、その前後がばかに忙しかったりで、結局お流れになってしまう。こういう状態が九年も続いたのだ。  そんなわけで、彼の友人の画家、野村万吉が、そのプランと舞台を提供し、彼の助手をつとめてくれるといい出したときには、彼はすべてを忘れて、無性に嬉《うれ》しがったのである。  その話というのはこんなものだった。 「大城さん、実は四月一日の七時から、山本良助さんの家で、エロ映画の試写会があるんですよ。あなたはかねがね四月馬鹿の決定版を作りたいと意気ごんでいるし、そいつを実行に移すには、絶好の機会だと思うんですが、どうです。やって見ませんか?」 「というと?」 「警官に化けてふみこむんですよ。玩具《おもちや》のピストルぐらい持ってきてぶっぱなせば、いよいよ効果的ですがねえ。時間をきめて、僕が便所に立って、玄関の錠《じよう》をはずしておきますし、現場へとびこんで来るのもむずかしくはないでしょう」 「名案だ! ただ、その試写会の方が四月馬鹿じゃないだろうな?」 「とんでもない。今日は三月二十五日ですよ。ほかの日にこんな嘘《うそ》がつけるもんですか」  野村万吉は真剣だった。芸術家にはよくありがちな子供っぽさが、やはり自分と同じように、この悪戯《いたずら》に興味を持たせるのだろうと大城雄作は考えた。  そこまで、おぜんだてをしてもらえば、その後の細かな点に磨《みが》きをかけることは、大城雄作のしごとだった。  山本良助ともかなり親しい仲だし、こういう悪戯に腹を立てて、絶交状をたたきつけて来るようなことは絶対に考えられない。事実、その翌日、山本家からは彼のところへ電話があって、この試写会へ出席しないかとすすめてきたのだが、彼はその晩は重大な用事があるから、行けるかどうかわからないとことわった。これなら嘘《うそ》にはなるまいと、彼は思わずほほえんだ。  警官に化けるのは大変だから、彼は私服の刑事に化けようと腹をきめた。警察手帳のかわりにはパス入れを用意し、捜査令状のかわりに手もとにあったべつの書類に、スタンプや蔵書印をべたべたおしまくって、どうやら形は整えられた。むこうが後ろ暗いことをやっている以上、こんなものを手にとって、じっくりあらためるわけはないのだ。  あとは黒|眼鏡《めがね》に、汚れた鳥打帽子、そしてスプリングの襟《えり》を立てればいい。これで準備はほぼ完了したわけだが、その後にはピストルの問題がのこっていた。  玩具《おもちや》を持って行くのも気にいらなかった。といって、本物のピストルを手に入れることなどは思いもよらない。  思案しながら、街を歩いている間に、彼は中古カメラ屋の店先で、珍しいピストル型のカメラを見つけた。ドリューという名前で、警視庁で専《もつぱ》ら使われているのだということだった。弾倉にあたる部分に十六ミリのフィルムをいれ、引金をひくとシャッターが切れる。しかもマグネシウムの発光弾がついているから、夜でも写真がとれるというのだ。  いまの大城雄作には、これ以上の小道具は考えられないくらいだった。彼はにやにや笑いながら、財布のあり金を全部はたいて、この特殊カメラを買いいれた。  そして、待望の四月一日がやってきた。  桜もまず七分咲き、天気も日本ばれなのに、彼はわざわざスプリングを着こんで四時ごろから家を出た。どうもしらふで、こんな芝居をするのもてれくさかったから、あまり酔わない程度の酒を入れて、適当に時間をつぶすと、野村万吉と約束した午後八時ちょうどに、山本家の玄関に立った。  ドアのノッブに手をかけて、そっとひいて見ると、何の手ごたえもなく開いた。野村万吉は、約束通りに実行してくれたらしい。  玄関には、かなりの靴がならんでいる。この調子では、集まったお客も十人は越えているようだった。  このまま、ふみこもうかと思ったが、何だかふしぎなためらいが出た。 「御免下さい。御免下さい」  と声をかけると、幸いに彼の顔を知らない女中が取次ぎにあらわれた。 「あの、どちらさまでございましょう?」  すこぶる柄の悪い恰好《かつこう》だし、家では悪事を働いているという弱みがあることだから、女中の方も、気の毒なくらいおどおどしていた。 「警視庁のものだが、御主人はいるかね?」  わざと、どすのきいただみ声でたずねると、彼は用意してきた品物をつきつけた。 「これが警察手帳、これが捜査令状だ。おたくでは今夜いかがわしい映画を公開しているというので、現行犯逮捕にやってきたのだ」  ドリュー・カメラをつき出すと、女中はきゃっと悲鳴をあげた。その場にぶっ倒れ、はって階段の上り口までたどりつきながら、 「先……先生、警……警視庁のお方がお見えになりました」  と、二階へむかって、息もたえだえな叫びをあげた。  映写機をまわすカタカタという音も一瞬にとだえ、二階はとたんに静まり返った。  ちょっと薬がききすぎたかな——と、大城雄作は後悔したが、その時、 「何だ。警視庁がおれに何の用だと?」  と大声でどなりながら、山本良助は階段をおりて来た。きっと主人役の義務として、身を挺《てい》して警察権の施行を妨げようとしたのだろう。肩を怒らせ、虚勢は張っているものの、さすがに狼狽《ろうばい》の色はかくせない。しかし雄作の顔を見て、呆然《ぼうぜん》と立ちすくむと、 「大城君、これはいったい何のまねだね?」 「ばれたか?」  雄作は思わず苦笑した。どうせ、素人《しろうと》細工の変装だし、最後までだましおおせられるとは思ってもいなかった。 「実は……四月馬鹿の悪戯《いたずら》だ」 「四月馬鹿? よし、やろう」  山本良助は一瞬に事情を察したらしく、にやりと笑って、階段を指さした。きっと被害者になるのはしゃくだから、自分も犯人側にまわって、二階のお客をおどろかしてやろうと咄嗟《とつさ》に考えたに違いない。  この言葉にはげまされて、雄作は階段をかけ上った。会場の襖《ふすま》をがらりと開けて、 「みなさん、警視庁の者ですが、お静かに願います」  というなり、ドリュー・カメラの発光弾をぶっぱなした。  これはたしかに薬のききすぎだった。部屋中はとたんに大混乱となった。 「お静かに、お静かに!」  といいながら、もう一発、この発光弾をぶっぱなしたが、その次の瞬間には、どすーんという鈍《にぶ》くぶきみな音と、きゃーという絶叫が、ほとんど同時に耳をうった。  電灯がついた。そして後から部屋へとびこんで来た山本良助は一座の人々を見まわして、 「藤掛さんはどうしたんだ?」  と上ずった声で叫んだ。  部屋の窓は一枚開いていた。そのそばへかけよって下をのぞくと、その真下のコンクリートの上には、女が一人血だらけになって倒れていた。それが、つい寸前までこの部屋にいた藤掛千鶴子《ふじかけちずこ》であることはあらためて調べるまでもなく、誰《だれ》にも一眼でわかったのだ。  それから後には、悪夢のような大混乱がやって来た。すぐ医者がよびにやられたが間にあわなかった。きっとあのさわぎに逆上して二階の窓から屋根へとびおりようとでもしたのだろう。ところがそこは切りたった壁だから、窓ぶちに足をとられるかどうかして、さかさまに下へ転落し、コンクリートの上へ頭から激突して頭蓋《ずがい》骨折をおこしたのだろうというのが医者の所見だった。  人間一人が死んでは、もう笑い話ではなかった。すぐ本物の警察官がかけつけて、大城雄作は山本良助や映写技師といっしょに警察へつれて行かれた。  もちろん、そこで雄作は眼から火が出るほど叱《しか》りとばされた。 「あなたのように地位も常識もおありになるお方に、こんなことを今さら申しあげたくもありませんが、今度はいわせていただきます。四月馬鹿の悪戯《いたずら》は、もちろん結構ですが、それには、当然、常識的な限界があるはずじゃありませんか。あなたのしたことは、完全な公職|詐称《さしよう》、りっぱな犯罪を構成するのですぞ」  井口という警部は拳《こぶし》で机をどんとたたいて、 「それもほかに被害がなかったら、われわれとしても重箱の隅を楊子《ようじ》でほじくるようなまねはしたくもありません。しかし、あなたの悪戯《いたずら》が原因となって、少なくとも一人の人間が死んでいるのです。あなたも責任を感じて下さい。今晩一晩は留置所でゆっくり反省して見るのですね」  と怒りをこめていいきった。  その晩は、彼も留置所で一睡も出来なかった。激しい悔恨《かいこん》のためだった。  翌朝調べ室につれ出された彼は、まず型通りの調書をとられたが、その後で井口警部はにやりと表情をくずしていった。 「まあ、あなたの悪戯はべつとして、警察の方はあなたに感謝してますよ、おかげでべつの犯罪が曝露《ばくろ》されましたから」 「それはエロ映画の件ですか?」 「違います。殺人です。藤掛千鶴子は殺されたのです。あのどさくさに、野村万吉という男に窓からつき落とされて」 「何ですって!」 「動機は失恋のようですね。かなわぬ恋の逆恨みをはらそうとして、彼はああいう計画をたて、あなたをひきずりこんだのですね。もっとも彼にいわせると、殺意はなく、けがでもさせてやろうというのがきっかけだったようですが」 「どうして、そんなことがわかったのです? 彼が警察へ自首して出て自白でもしたのですか?」 「そうではありません。あのカメラのフィルムを現像して見たら、彼が藤掛さんをつき落とした瞬間の光景がはっきり写っていたんですよ。誰《だれ》もあわてていたでしょうし、マグネシウムで眼がくらんだでしょうから、一人もそこまで気がつかなかったのはむりもないとして、あのカメラがここまで効果的に使われたことは、私の知っているかぎり、警視庁でも今まで一度もなかったようですよ」  一匹の蟻《あり》     一  久しぶりに、一杯つきあわないかと、旧友の菊山隆二から電話があったので、塚本警部は早目に仕事を切り上げて、警視庁を出た。  仕事の関係で、時間がはっきり約束出来ないがと念をおすと、それじゃあ六時からずっと、西銀座《にしぎんざ》のモンパルナスという喫茶店で待っているということだった。  喫茶店とは、少し妙だと思ったが、何も目に角たてて、反対するほどのことでもない。  その店はすぐにわかった。二階建てかと思ったが、中に入ると、平土間と、五尺ほど地下へ掘り下げて作った穴蔵《あなぐら》のようなところと、その上の中二階と三層になっている。  一目で見わたせる、三層の各層の変化が、警部の眼に新鮮な感じを与えた。久しく銀座へ出て来ない間に、変わった建築様式が流行《はや》り出したものだなと思った。  先に来て待っているはずの菊山隆二は、平土間にも地下にもいなかった。ちょっと小首をかしげて、警部は苦笑いした。彼の気位の高さからいっても、この穴蔵のような地下室や、出入りの客が混雑する平土間が性にあうはずはないのだ。  やっぱり、菊山隆二は中二階にいた。長髪の男か女かはっきりしない、芸術家タイプの眼のするどい人物を前にして、テーブルいっぱいに、トランプの札をひろげ、何か小声で話しあっていた。 「賭《かけ》か」  脅してやろうと思って、少しきびしい、職業的な声を出すと、菊山隆二はふりかえって、 「なあーんだ、君か。びっくりさせる……あんまり商売気を出しなさんなよ。いま占《うらな》いをして貰《もら》っているところだ」  と、いった。 「ほう、トランプ占いか。あたるかね」  となりの椅子《いす》に腰をおろして、警部はたずねた。 「まあ、あたるも八卦《はつけ》、あたらぬも八卦といいますから」  こんな質問にはなれているのだろう。この占師《うらないし》は至極淡々たる調子で答えると、テーブルの上の一枚のカードをさして、かすれた声でいった。 「またスペードの四がつきましたね」 「それは……」 「死の札ですよ。これが普通の人についたら大変だけれど、先生みたいなお医者様にはついてもおかしくないんです」 「君のような、警察官にもついておかしくないわけだ。僕はもうこれでおしまいだが、君も何か占ってもらわないかね」 「自分の身の上なら沢山だ。いま困っている事件の犯人が分かる——とでもいうならともかく」 「その事件というのは、何人か容疑者がきまっているんですか」  興味をおこしたように、この占師《うらないし》はきいた。 「いいや、東京中の何百万という人間が、みんな容疑者といったところかねえ」 「それじゃあ無理です。相手があなたの知っている人ならともかく、トランプの札は五十三枚しかないんですよ」  笑って階段をおりてゆく、占師の後ろ姿を見送りながら、警部は声をひくめてたずねた。 「彼の占いはあたるのかね」 「彼じゃない。彼女だ」 「女か。あれが……」 「女でもただの女じゃない。むかしは朝鮮《ちようせん》の平壌《へいじよう》かどっかで、多額納税者だったという女傑——ああして男みたいな恰好《かつこう》で、当時道楽に習いおぼえた占いで、辛《かろ》うじて食っているんだそうだ」 「インテリだね。あたるかい」 「福士さん、福士さんと、この店へ来る連中がワイワイいってるところを見ると、あたらないともいえないんだろう。現に僕が学生時分に、脳膜炎を患《わずら》ったことは、たしかに見やぶられた。しかし天下国家の大事件となると、どうも的中率は少ないようだ。現に今年の春だって、鳩山《はとやま》さんが天下をとると断言したが……」 「鳩山株も暴落だからな。もう、ちょっと芽をふくこともあるまい」 「ところで、何か困った事件があるのかい」 「僕も珍しく弱気になったよ。いま、君の占ってもらっているのを見ているうちに、ふいと犯人の名前まではわからなくても、手がかりだけでもわからないかなという気になった」 「何だ。それは……」 「いや」  と、コーヒーをスプーンでかき廻《まわ》しながら、 「新宿《しんじゆく》の東都座、あそこで二か月ほど前に起こった殺人事件を知っている——?」 「いいや、聞いたら思い出すかも知れないが……」 「僕も困っているところだ。まあ、占師の御託宣《ごたくせん》はうかがえなくても、精神病理学者たる君の御高見でも聞かせてもらおうか」 「うん……」  よほど、思案に困っていたのだろう。酒が入ってしまっては、まじめな話も出来ないと思ったのだろう。ビールでももらおうかという、菊山隆二の言葉もことわって、警部は静かに話しはじめた。     二 「東都座の歴史は古い。今更、君に説明するまでのこともあるまいが、地下一階、地上四階の堂々たる大建築だ。地下はレストランになっているし、四階目はいまアンコールの洋画をかける名画劇場になっているから、東都座そのものの客席は三階までだが、そんな大建築と、となりの新光ビルとの間に、幅三メートル、長さは三十メートル位の袋小路がのびているんだから、まあ都会の谷間というような形だ。新宿一の大通りから、二十メートルも離れていない所で、しかもまだ完全に暗くはなりきっていない夕刻に、人間一人が殺されたというのだから、我々としても、完全に盲点をつかれたような形になる」 「新光ビルと東都座の間の小路というと、なるほど、ビルディングの方には窓はなかったようだし、あの小路の入口は通りをへだててデパートに面していたっけな。もっとも、その入口は鉄棒を組んで作った門でふさいでたように思うが……」 「記憶力満点だね。いつもはあの門は閉まっている。ただ東都座の一階の横の通路からだけは自由に出入り出来るんだ。これが正月や何かで、入りきれないお客が行列を作るようなときだと、逆に映画館の通路の入口をふさいで、あの門から中にならばせるんだ」 「僕も一度、あの四階の窓から、そんな行列を見おろしたことがあった。人間もこうなれば、蟻《あり》の行列のようなものだとつくづく思った」 「まあ、その日は、そんなに混雑してはいなかったんで、その鉄門には錠《じよう》がおりていた。だから大通りの方が、どんなに混雑していても、ここから人間は出入り出来なかったことになる。被害者も犯人も、東都座の入口から切符を買って、入場した人間にかぎられる」 「東都座の従業員をのぞいたらね」 「従業員たちの中には、一人もあやしい者はなかった。結局、我々の推論が正しいと思うんだ」 「正しいか正しくないかは、犯人が捕まって見なければわかるもんか。それで……」 「被害者は三輪敏夫という若い実業家だ。代々木《よよぎ》で、三光商事という小さな商事会社を経営しているが、一応の資産もあり、取引先や銀行の信用もあり、温厚な人柄で、人に恨みを買うような男ではない。年は三十四だが、家族は久夫というK大に行っている弟と、母親きり、細君にはついこの夏に死なれたばかりだ」 「死因は……」 「後頭部を鈍器《どんき》で一撃されたんだ。凶器の種類ははっきりしない」  菊山隆二の眼には、かすかな疑惑の色が浮かんだ。 「そこが僕にはげせないのだ。後頭部に鈍器の一撃といったら、当然骨折や出血が伴ったんだろう」 「もちろんだ。発見した時には、もう手おくれだったんだから」 「わからんねえ。凶器を持って現場に行ったのはわかるとして、殺人を行ってから、血のついた凶器をそのまま持って帰る……殺人の現場に捨てて来た方が安全なはずなのにねえ」 「死体が発見されたのは、六時十五分ごろだ。腕時計は倒れたはずみに、コンクリートの上へ叩《たた》きつけたのだろう。ガラスは割れ、針は五時五十分で停《と》まっていたが、ロンジンだから、時間はまず正確にあっていたものと考えてもいいだろう。被害者は発見されるまで、約二十分間、虫の息でのたうち廻《まわ》っていたのだろう。都会の谷間——いや、エアーポケットのような所で初めて見られる珍現象だな。まあ何にせよ、犯人はその間に凶器を処分し、東都座の入口から大手をふって逃げ出したのだろう。毎日のべ何千人という人間が出入りする興行館だ。一々お客の顔をおぼえていろというのも、土台無理な話だ」 「なるほど、それでは、君のいったように、東京中の住民八百万人が、みな容疑者だという説もわかるね」 「その概算は多すぎる。約四百万人だ」 「どうして——?」 「女なら、たとえ今の占い屋さんのような彼女氏でも、そんな力業は出来まい。これは物理的に不可能だ」 「必ずしも、不可能ではあるまいと、僕は思うな。たとえば、三階や四階の窓から、何か重みのあるものを、下にいる相手の頭をねらって落とす。相手が動きさえしなければ、加速度の加わった物体は、りっぱに鈍器《どんき》の役目をはたす」 「君もやっぱりそんなことを考えたのかねえ」  警部は一瞬、瞳《め》を輝かせたと思ったが、すぐ肩を落として歎息した。 「それは全くナンセンスだ」 「どうして」 「人間一人の命をとる。これは面白半分に出来ることじゃあるまい。誰《だれ》を殺してもいいというものじゃあるまい。ねらう相手をどうして、あそこにおびき出す。三階ならば、おなじ映画館だからまだしも、四階になれば、全然小屋が違うんだ。たとえ、あそこで待ち合わせる約束をしたとしても、どこの窓の下とまでの指定は出来ないよ。ことに時刻は黄昏《たそがれ》時だ。三階や四階から地上までには相当の距離がある。たとえ、人間が下にいることだけは分かったとしても、その相手がほかの男ではない、自分のねらっている男だと、どうして見きわめがつくんだ。さあ、精神病学の権威者たる君になら、僕たちを納得《なつとく》させられるような推論が組みたてられるかね。それとも、僕の目の前で、宝くじを一枚買って、百万円あててくれるかね——そうしたら、僕は君の御説にいさぎよく従おう」 「宝くじで思い出したが、初期のころ、家屋敷を売りとばして四十万円の金をつくり、くじを買いしめた男がいるそうだ。一本でも百万円があたれば、六十万もうかるという考え方だそうだ。この人間をどう思う」 「そいつは君の患者だろう」 「君たちは知らないかも知れないが、われわれの厄介《やつかい》にならない人間の中にも、案外沢山、精神病の患者はいるんだよ。ところが今度の犯人は、決して精神病者なんかじゃないと思うな」 「なぜだ——?」 「あまり理論が専門すぎて、ちょっと簡単にはいえないが……人間は誰《だれ》にでも、同じ人間の血を見たいという本能が、ひそんでいるんだよ。たとえば戦争——あんな生死の関頭《かんとう》に立たされると、どんな人間にでも、一番原始的なその本能が目ざめるんだ」 「曲がりなりにも世は平和だ。やたらにそんな本能をよび起こさせられちゃたまったもんじゃない」 「それで君たちの商売も成り立つ、医者に警察。どっちも似たようなもんだと思わないか。お互いに理想社会の実現に努力していながら、それが実現した時には失業するという運命にさらされている。矛盾だよ。大きな矛盾だ。ただ大いなる天才だけが、この矛盾を克服出来るんだね」  菊山隆二は、医学博士、S病院神経科次長の貫禄《かんろく》を見せて、重々しくいった。 「君は僕に何かかくしていることがあると思うな」 「どうして……何を……」 「何ということはない。占いじゃないが、君の顔色から判定したのさ。まあ、全部僕に打ち明けての相談なら、僕は精神医学の見地から、その犯人の内面的な面影を今少し、くわしく描き出して見せられるがね」  かすかな笑いを浮かべて、菊山隆二は席を立った。 「座をあらためて飲もうよ。今夜は……もうお互いに、そんな話は忘れようじゃないか」     三  塚本警部はその後で、酒席に行ってからでも、またこの事件のことをくりかえし、紙入れもその中の現金も、手つかずに残っていたところを見ると、決して物とりや何かのしわざではない。不良に喧嘩《けんか》でも売られたのか、怨恨《えんこん》か、そのどっちかに違いないと、くりかえし語った。  菊山隆二は満足だった。彼は自分の持説に対して、一つの回答があたえられたように思った。ただ彼が、この事件で気になったことといえば、当時現場に残っているはずの凶器がどうなったのか、警部がわざとかくしているのか、それとも誰《だれ》かが凶器だけを、後で持ち去ったのかという疑問であった。警部の話によると、事件が起こったと思われる時間に、誰か知れない女が一人、この小路を出て、出口から出て行ったのを見た者があるということだったが、犯人男性説をとなえる警部は、この女のことなど、てんで問題にもしていない様子だった。  この女のことが、菊山隆二の心にかすかな疑惑をよびおこした。  誰なのだ……この女は……もし、この事件に関係があるとすれば、それは被害者とどんな関係を持った女なのだろう。  だが殺された三輪敏夫という人物は、彼にとっては全然赤の他人だった。おたがいに顔を見あわせたこともない。警部の話をきいたときにも、この被害者は、彼の抱いている概念の興味ある対象にしかすぎなかった。目に見えない運命の糸が、彼の知らないうちに、彼とこの被害者とを、密接に結びつけていようということなどは、彼の想像もしていないことだった。  菊山隆二は今年四十二歳になる。何度も結婚したことはあるが、一度も入籍はしなかった。マッカーサーは七人の妻をかえたなどという例を持ち出して、自分の行為に傍証《ぼうしよう》を与えた。十何人かの妻妾《さいしよう》を、わが家に同居させておいたという、何代か前の御先祖のことを、彼はむしろ誇りに思っていた。そういう彼の我儘《わがまま》が通るのも、この御先祖以来、各代の先祖たちが、女色の道ばかりではなく、貨殖《かしよく》の道にも長じていて、郷里に山林不動産などで相当以上の財産を残しておいてくれたからだ。  そんなに、何度も妻をかえたくせに、子供といっても一人しかない。最初の妻は、この子を産《う》んで間もなく死んだ。澄子という、十八歳になる娘である。初めは邪魔者のように思っていたこの娘を、彼は次第にかわいがり始めた。今日では、まるで眼の中に入れても痛くないように、思いつめているが、その娘は最近、親の自分にも理解が出来ないような、微妙な変化を見せはじめた。 「澄子はまだ帰っていないのか」  家へ帰ってきて、着物を着かえながら、何番目かの妻の慶子にきいた。 「はい」 「冗談じゃない。もう十時だぞ。年ごろの娘が、こんなに遅くまで夜遊びをして……」 「映画でも見ているんでしょう」 「すましているやつがあるか。お前の監督不行き届きだ。なぜ、そういってきかせない」 「生《な》さぬ仲です。それでなくてもひがんで、わたしには口もきかないんです。わたしが何をいったところで無駄ですわ。あなたの娘なら、あなたからいいきかせたらいいでしょう」  慶子はたしかに、ふてくされていた。彼女もそろそろ、自分の前に、この家の妻の座に坐《すわ》った、幾人かの女性の運命を、わが身に感じはじめたのかも知れなかった。 「何だ。おれに口をかえすつもりか。教育のない女のくせに」 「わたしに教育のないことは、初めから知ってらしったんでしょう」  彼は襖《ふすま》をたたきつけるように、ピシャリと音をさせて閉めると部屋を出た。書斎へ入ろうとして、急に思い直すと、澄子の部屋の戸を開けた。  安っぽい香水の移り香が、鼻をついて来るようだった。壁につるしている、ガメロンのあやつり人形が、風もないのに、かすかにゆれた。  彼はだまって机の引出しを開けて見た。音楽会や、映画や、アイスショーなどのプログラムがぎっしり入っている。どんなつまらないものでも、捨てたがらないのが、澄子の子供の頃《ころ》からのくせだった。  それをパラパラくっているうちに、はっとして彼は手をとめた。『我等にジャズを』見おぼえのある映画の題名だった。それをぬき出して開いて見ると、切符の片端だけが出て来た。十月六日——東都座。  十月六日……たしかに、あの殺人が行われた日だ。その日付は、彼にも記憶にある。  塚本警部に、あんなことをいわれたあとだけに、彼は何となくギクリとした。  偶然の一致だ。偶然だ。たとえあの日にあの劇場へ行っていたところで、あの時間にいあわせるはずはない。娘がこの事件に関係を持っているはずはない——と、彼は心にいいきかせた。  次の引出し、その中には、手紙がギッシリつまっていた。その封筒の差出人の名前をしらべているうちに、彼をギクリとさせた。男の名前があった。  三輪久夫——たしかに聞きおぼえのある名前だ。さっき、警部のいっていた、あの事件の被害者の弟なのだ。  彼は震える手で、その封筒の中味をひき出して見た。そして、これが男の手紙だろうかと、一瞬自分の嗅覚《きゆうかく》を疑った。安っぽい香水の匂《にお》いが、その便箋《びんせん》から発散していた。  筆蹟《ひつせき》はたしかに、男の字だった。うまい字ではなかった。当て字や、誤字や片仮名まじりの、歯の浮くような文章で、きざっぽい愛の告白がしてあった。  そして、最後に一番下の引出しを開けて見たとき、彼は全身が笹《ささ》くれだったような思いがした。青銅の、かなり重みのある文鎮《ぶんちん》が、その中にかくしてあったのだ。  どこのデパートにも売っている品、鞄《かばん》にでも、ハンドバッグにでも入る品——しかし、使い方一つでは、これはりっぱな凶器になる。凶器だ——彼はそのことに、もう疑いを持っていなかった。ただ彼の心をかすめた、恐ろしい疑惑は、どうして娘がこの凶器を、ここにかくしてあるかということだけだった。     四  澄子はその晩も遅く帰って来た。彼はさっそく、自分の部屋によび入れると、神経質に扉《とびら》の鍵《かぎ》を中からかけた。十八の、もう完全に成熟した、娘の全身を、彼は今までとは違った目で見つめた。  美しい娘だった。その母親を偲《しの》ばせる、情熱的な光が、黒い大きな眼に輝いていた。すんなりと伸びた肢態《したい》に、彼は男を知った女を感じた。 「今まで、こんなに遅くまで、どこへ行っていた——?」  親としての威厳をこめて、彼はたずねた。 「お友達といっしょに映画——それからいっしょにお茶をのんで……」  ちっとも悪いことをしたと思っている顔ではなかった。 「男の友達か」 「そりゃB・Fもまじってたけど」 「B・F」 「ボーイ・フレンドの略字なのよ」 「澄子、わたしは今夜は親として物をいう。わしは今まで、お前を自由に育てて来た。あまりに甘やかしすぎたとも思うが、のびのびと個性をのばしてやりたかったからだ。しかし、最近のお前の行動は、とかくわしの眼にさえあまるものがある。結婚前の娘として、やはりある程度の慎しみが必要だとは思わないのか」 「平凡ね。今時そんな古風な倫理道徳は通用いたしません」 「わしのいい方は古風かも知れん。自由主義——戦後の若い人々の考え方に、変化が起こったことはわしも認める。しかし、人間の根本的の考え方というものは、いつの時代にも共通なはずだ」 「お父さんがそんなことをおっしゃろうとは思いませんでしたわ」  唇を噛《か》んで、澄子は突然反撃した。 「どうして——」 「お父さんに、そんなことをおっしゃる資格はないわ」 「何をいうのだ」 「お父さんは、自分を超人だと思っていらっしゃるんでしょう。どんなことをしても許される、人間以上の人間だとでも思っておいでなんでしょう。ほかの人間というものは、お父さんには、実験用の兎《うさぎ》かモルモットにしか見えないんでしょう。わたしだって! わたしのお母さんだって……」 「澄子」 「わたしだって、むかしは親孝行だったつもりよ。少なくとも娘としての資格はあったつもりなのよ。でも、わたしがこんなにかわったのを、何んのためだと思ってらしって。戸籍謄本《こせきとうほん》を見たからなのよ。自分が私生児——せいぜい、あとで庶子に認知されただけだということを知ってから、わたしの人生観というものは、すっかりかわってしまったのよ」 「澄子、お前は……」 「お父さんに、ほかに正式の奥さんがあったのなら、そしてお母さんと愛しあっていながら、正式にいっしょになれなかったのだというなら、わたしもあきらめます。やむを得ないことだとも思います。しかし、あの時、お父さんが、もしもその気になりさえすれば、簡単に、その手続きぐらいは出来たはずよ。あたりまえのことじゃありませんの。人間としてそのぐらいのことは……」 「お前は、わしが今まで育てあげた恩も忘れて……」 「モルモットにだって、餌《えさ》をやらなければ死んでしまいます。食わせて、着物を着せてやって、それで子供が満足すると考えるのは、まるで動物みたいな見方……そんなもんじゃないわ。人間というものは。わたしに教育をして下さったんだって、お父さんの眼から見たら、一種の投資だったんでしょう」  自分の知らない感情が、いつか娘の心の中に芽生《めば》えていたのだ。菊山隆二は慄然《りつぜん》とした。 「生みの恩も忘れて——と、お父さんはおっしゃりたかったんでしょう。でも、それは一時の欲情の産物だったんでしょう。生まれて来なければよかったと思っているほどの厄介《やつかい》物だったんでしょう。分かってるわ。生まれてしまえば、わたしの体はわたしのものよ。お父さんが何も口を出す権利ないわ」 「澄子、お前は考え違いをしている。菊山家は由緒《ゆいしよ》ある名門だ。自分の身を粗末にしてはいけない」 「お父さんは、御自分を大変な人間のように思いこんでいるけど……お父さんだって、わたしだって、結局はただの人間なのよ」  澄子の眼には涙があふれた。さっきから、何度か、その頬《ほお》をなぐりつけてやりたいとは思っていたが、彼には手が動かなかった。 「むかしのことをいうのはよそう。お前のお母さんも死んでいる。今更いっても詮《せん》ないことだ。それより十月六日、あの日、お前はどこへ行っていたのだ」 「十月六日……」  澄子の顔に、暗い恐怖の影がかすめた。 「おぼえちゃいないわ。二た月も前のことなんか!」 「新宿の東都座へ行ったはずだ。映画は『我等にジャズを』ここまでいったら思い出すだろう。時間は何時ごろだった」 「そう……お昼ごろかしら……」 「嘘《うそ》をつけ。夕方——六時ごろだったはずだ」  澄子の眼に涙はかわいていた。緑色のセーターの下に、むっくりと盛りあがった二つの乳房を、興奮にはずませ、かすれた声で問い返した。 「どうしてそんな……お昼といったら、お昼です」 「嘘だ。三輪久夫——という男とお前とはどんな関係がある」 「どうして……」 「その兄の三輪敏夫、お前も知らないとはいうまい。彼の兄だ。十月六日、東都座の中、そのとなりの小路で殺されたのだ」 「知らない! わたし、何も知らない!」 「それでは、どうしてあの文鎮をかくしておいた……」  澄子はその場におどり上がった。その顔はまっ青だった。彼もぞっとしたほど恐ろしい形相だった。 「卑怯《ひきよう》な人! 人の机を探したのね」 「親として、子供の行動に対しては監督の責任がある」 「何おっしゃるの……わたしは久夫さんと結婚するのよ」 「許さぬ」 「します!」  つめたくするどく、澄子は叫んだ。きっと父の眼を見つめ、思いがけない言葉を吐いた。 「お父さんはいつかいってたはずよ。高いビルディングの上から見れば、下を歩いている人間は、まるで蟻《あり》のように見える。ふみつぶしてやりたいような気がすると、そういってたじゃありません」 「澄子……」 「わたしたちの結婚には、誰《だれ》も邪魔はさせないわ。お父さんはその時いってた。このビルディングの上から、何か落としたら、この蟻は一匹死ぬだろう。しかも、全然無関係な自分に嫌疑《けんぎ》はかかるまいと、そういってたじゃありません。全然、関係もない、赤の他人が殺せるくらいなら、自分の一生に邪魔をする、大きな邪魔物はあたりまえよ」 「…………」 「いいことを教えて下さったものね。でも、あのプログラムと、手紙と、文鎮ぐらいから、それだけのことが見やぶれるとは、お父さんも大した名探偵の素質がおありなのね」  彼は打ちひしがれたような気がした。     五 「おじさま」  日が暮れてから、病院を出て来た菊山隆二は、後ろから自分をよびとめる声にびっくりしてふりかえった。  生っ白い、にやけたような背広の青年だった。年はまだ二十二、三か——どこかで見たような顔だったが、彼には誰《だれ》か、咄嗟《とつさ》には思い出せなかった。 「君は——?」 「御存じないんでしょうか。澄子さんが、僕の写真を見せなかったかなあ。僕、三輪久夫なんです」  三輪久夫——その名前が、彼を震え上がらせた。幽霊でも見たように、全身をこわばらせて、彼は叫んだ。 「君が……いったい何の用事だ!」 「おじさま」 「男なら、もうちっと、はっきりした言葉づかいをしたらどうだ。第一、君におじさまと呼ばれるような覚えはない」 「じゃあパパさんとお呼びしましょうかしら」 「ことわる!」  するどい一喝《いつかつ》だったが、相手は別に閉口した様子もない。 「おじさま、そんなに袖《そで》になさらなくってもよござんしょう。ちょっとお話したいことがあるんです」  一緒に飯でも食いながら——というべきところだろうが、そんな言葉は、彼の口からは出て来なかった。こんな男の顔を見ながら、食事するのでは、嘔気《はきけ》がして、飯はおろか、酒さえ喉《のど》を通りそうにもない。 「歩きながら話そう」  それだけいうのがやっとだった。肩をならべて、暗い屋敷町を歩いて行く二人の姿は、よそ目には、仲のいい親子か何かのようにうつったろう。しかし、彼の心の中にくすぶり燃えていたものは、敵意と軽蔑《けいべつ》のほかにはなかった。 「おじさま、僕、澄子さんと結婚したいんです」 「許さん。絶対に」 「どうしてです」 「わからんのか。それが……」 「恋愛は神聖なんです。僕たち二人は、心から愛しあっています。きっと幸福になって見せます」 「世の中には恋愛だけがすべてではない」 「そうですか……でも、僕たちはあとへはひきませんよ。こうしてお願いするのも、ただ形式的なものなんです」 「何を! 生意気な……」 「じゃあ、おじさまにうかがいますが、どうしておじさまは、僕たちの結婚に反対なさるんです」 「胸にきけ。心におぼえがあるだろう」 「さあ……」  相手は良心に何んの呵責《かしやく》も感じていないようだった。いや最初から、良心などというものを持ちあわせているのかと、疑われたくらいだった。 「おじさまはどうかしていらっしゃる。きっと、お若い時の脳膜炎がどこかに残ってるんですよ。脳病なんていうものはそんなものです。たとえ、一時はあとかたもなく、根治してしまったように見えても、必ずあとをひくんですよ。たとえば、おじさまは脳病をおやりになっても、学問的な才能には、少しも狂いはなかったんでしょう。しかし、道徳観念だけが麻痺《まひ》して、ノルマルな考え方が出来なくなってしまったんですよ。僕も一人、そんな人間を知っていますがねえ。やっぱり、おじさまと同じこと、学校の成績だけはいいくせに、ふだんの生活となると、まるで子供みたい……」  いやなやつだ。ベラベラと、立板に水を流すような詭弁《きべん》ばかり並べたてて——とは思ったが、その言葉には、彼をギクリとさせるような、医者の彼にも、今まで気のつかなかったような真理がこもっていた。 「おじさま、僕は僕たちの結婚を邪魔するものを、どけるためなら、どんなことでもするつもりですよ」  語気はやさしいが、何んとなく凄《すご》みをおびた言葉だった。 「たとえばどんな……」 「たとえば……兄はこの結婚には反対でした。こんな不良と結婚するならといいきったんです。僕はお金がほしかった。澄子さんと結婚するにも、いやしたってすぐに、おじさまの財産は処分出来ないでしょう。おじさまはいいことを教えて下さった。澄子さんからききましたよ。高いところから物を落として……僕は自分の友だちにたのみましたよ。東都座の三階あたりで待っててくれって……なあに、何も関係のない人間を殺すなら、足はつきっこないんです。その友達と兄とには、直接に殺人を起こさせるような動機はないんですもの」  自分の頭で考え出した殺人計画——たしかにそれに違いはない。しかし、この男の口からきいた時、それは全然、色彩が違ったもののように思えた。自分の計画、いや、自分自身が歪《ゆが》められ、矮小化《わいしようか》されたような気がした。 「おわかりでしょう。ねえ、おじさま。澄子さんと結婚してもよろしいでしょう」 「いかん!」 「なぜです」 「そんな罪に汚れた結婚、邪《よこしま》な恋……それを許せると思っているのか!」 「罪は二人とも同罪なんですよ。僕は兄貴をあの場所へさそい出した……ある口実で、しかし僕はあそこには居あわせませんでしたからね。凶器を拾って来たのは澄子さんです。おじさま、あなたはまさか、私たちを訴えるわけには行きませんでしょうね」 「畜生! この溝《どぶ》ねずみ!」  彼は血走った眼であたりを見まわした。二人はちょうど、人通りのない道に来ていた。右側は、省線電車の線路を見おろす崖《がけ》だった。夜は暗い、人の心のように…… 「菊山君!」  突然、後ろからよびかける声がした。菊山隆二は、はっとして身をひいた。 「君は……」 「塚本だ。病院の前で、君の姿を見たんで、声をかけようと思ったとき、こいつが出て来たんで、だまって跡をつけて来た。おかげで思わぬ拾い物をした。感謝してるよ」  虚脱《きよだつ》したようにたたずんでいる、三輪久夫の手にガチャリと手錠《てじよう》をかけると、警部は、 「あとで行くよ。先に家へ帰っててくれたまえ」  と、声をかけた。 「あとで……」  おうむのように力なく、彼はその言葉をくりかえした。     六  その晩おそく、塚本警部は、自宅へ菊山隆二をたずねて来た。 「僕がこうしてやって来た理由はわかっているだろうな」 「わかっている」 「本当ならば、誰《だれ》かかわりの者をよこそうか——とも思ったんだが、思い直した。僕が自分で来た方が、まだ君に対する打撃はかるいと思ってね」 「君の友情には感謝している。覚悟していた。飲むか」  戸棚からウイスキーの角壜《かくびん》をとり出し、二つのグラスにつぐと、一つを塚本警部の前においた。 「お嬢さんに支度をさせてくれたまえ」 「娘の支度は出来ている。隣の部屋だ」  警部はだまって、廊下へ姿を消した。しかしかけもどって来たときには、その顔色はかわっていた。 「お嬢さんはどうしたんだ。澄子さんは!」 「殺した。僕がこの手にかけて——菊山家の人間が、縄目《なわめ》の恥をうけるということは許せぬことだ」  崩れて行く人が、ただそれだけをたのみにしてこの世に生きのびている矜持心《きようじしん》、それに圧倒されたように、警部はソファーに身を沈め、 「馬鹿なことを……早まったことを……」  と、つぶやいた。 「お嬢さんの方は、かるくすんだはずなのに……殺人の共犯でも、大したことにはならないのに」 「娘は殺人の共犯じゃない。ただ、ただ、あんな考え方にがまんが出来なかったのだ」 「わかるよ。君の気持はよく……だが、ティーン・エイジャーというやつには、我々の思いがけない性格があるんだ。しかし、君の犯した罪はたしかに殺人、困ったことをしてくれたなあ」 「殺人はこれが初めてではない。あの男を殺したのも僕だった」 「どの男——?」 「三輪敏夫」  塚本警部はかるく溜息《ためいき》をつき、相手のつきつめた気持をいたむようにつづけた。 「そのことなら、何もそんなに思いつめることはなかったのになあ。たとえ、そういう方法を考えたところで、考えるのと実行するのとは全然別のことなんだ。殺人|教唆《きようさ》罪にもならなかったんだ」 「考えただけではない。実行した。僕はあの時、東都座の四階、名画劇場にいた。窓から下をのぞいて、あの男が立っているのを見たので、その頭の上に文鎮《ぶんちん》を落とし、そうして裏階段をおりて出口に出て行ったんだ」 「どうして君が、そんなことを!」 「僕はいつでも、高いところに上がって、下に蠢《うごめ》いている人間どもを見るときに、そんな気持に襲われていたんだよ。この蟻《あり》の一匹を殺してやったら、どんな気持がするだろうとね——その考えが、たえず僕の頭にこびりついてはなれなかった。医学上の言葉でいえば、偏執狂《へんしゆうきよう》というやつだ。僕はその考えを実行に移したくってしかたがなかった。たえず、鞄《かばん》の中に文鎮を入れて機会を待っていた。蟻をふみつぶしたところで、僕のほうには何んの影響もないことだ。あの時がちょうど絶好の機会だった。僕の行動を見とがめている者もなし、あの男のそばには人影は見えなかった。僕はその時、三階でやっぱり同じ行動をとろうとしている人間のあったことは知らなかったよ」 「ああ……」 「何等関係のない人間を、何んの理由もなく殺す。こんな安全な殺人はない。自分の身に、何んの危険も及ばないのだ。僕の心は安らかだった。初めて満足感を感じていた。君から凶器が現場に落ちていないときいて、おやとは思ったが、まさか、その凶器を持って逃げたのが、娘だったとは思わなかったよ」 「ああ……」 「全然何んの関係もない相手だとばかり思っていたのに、思わぬところで関係がついた……しかも娘は、その男の弟と結婚しようという。それを認めるわけには行かぬ。わかるかい——良心の呵責《かしやく》からではなく、自分が蟻《あり》の仲間になり下がるのがいやだったんだ。誰《だれ》にたのんだか知らないが、あの男をもう一度よくつっこんで調べてみたまえ。その男は手を下してはいないんだ。何かを投げようとする直前に、僕に先手を打たれたのさ」  ソファーに深く身を沈め、彼はひとりで述懐するようにつづけた。 「娘は僕の投げた凶器と知らずにそのまま持ってかえった。あの男は、自分の計画が成功したと思って得々としていた。君が出て来なければ、僕はあの時、彼をつき落として殺すつもりだった。わかるかい。僕は娘や彼の中に見る、自分の姿にたえられなくなったんだよ。あの男は馬鹿だが、いいことをいってくれた。僕の若い時|罹《かか》った脳病が今でもあとをひいているということをね——そうかも知れぬ。いわゆるティーン・エイジャーの性格も、戦争という脳病の余病なのかも知れないさ」 「菊山君」  腰を浮かして、警部は一言きびしくいった。 「分かっているよ。君のいわんとすることは。しかし僕はさっきいったじゃないか。菊山家の人間には縄目の恥はしのべないとね」  彼はグイとウイスキーのグラスをあおった。毒——と気づいた時には遅かった。菊山隆二の額には、見る見る脂汗《あぶらあせ》がにじみ出て来た。 「蟻《あり》——そういう僕も結局は一匹の蟻にすぎなかったよ。やっぱり、どこか頭の神経が一本狂っていたんだろうね」  あらく息をはずませながら、彼はポツリと最後の一言をつぶやいた。 「今晩……宝くじを買いたまえ。世の中には……こんなふしぎな……運命の一致がある……」  犯罪の環  この奇妙な物語の主人公、伊吹京作は、一見したところ、何の特徴もなさそうな、中年男である。  しゃちこばった、ぎごちない、背広の着こなし方を見ても、一種独特の抑揚《よくよう》を持つ、とぎれとぎれの会話を聞いても、自分は新しい世の中には、順応する力を失ってしまったというように、会話の途中で眼を伏せられても、人はたしかにとまどいする。そして、この男の背後に、影のようにまつわりついている、過去の亡霊は、何だろうと、ちょっと不審を起こすかも知れないが、それといって、社会の中へ放り出して見れば、それは全然ほかの人間と変わりのない、何の特徴も持たない、平凡な個人としか思えない。  だが彼にも、華《はな》やかな時代はあった。陸軍大佐の軍服も凜々《りり》しく、参謀略章を胸に佩《は》いて、高級車を我が物顔に乗り廻《まわ》していた、毎日もあった。  しかし、時代の流れは、彼一人のちっぽけな感傷や、利害関係などは、超越して動いていた。彼にとっては全然思いがけなかった敗戦というつめたい現実は、幼年学校、士官学校から陸大へと、終始優等で通して来たという輝かしい経歴を、一顧《いつこ》の価値もないものにしてしまった。陸軍という大きな一つの組織の中でも、特別の重要性を持つ一つの鎖《くさり》、その一環として、欠くべからざる役割を、自負していた彼にとっても、その組織が跡形もなく崩壊し、鎖がばらばらに解きはなたれた、今となっては、ただ一つの環が、いかに力のない存在であるかという事実を、身にしみて、感じないではいられなかった。  時流の外に超然と、花鳥風月を友として、悠々《ゆうゆう》自適の生活を送る余裕など、あり得ようはずもなく、彼は妻と二人の子供のために、必死になって、働きつづけた。しかし半ば硬化しかけた、彼の頭脳には、新しい社会の思想は、なかなか理解できるものではなかったし、何といっても、四十八歳という年齢は、全然新しく、社会にスタートを切り直すには、どうにもならないハンディキャップであった。  彼は三年あまりの間に、七回職を失った。もはや前途は、灰一色に塗りつぶされて、何の希望も光明もない。  元将校の肩書を持つ人間が、強盗や密輸団の一味と連座して、捕えられたという話を聞いた時など、彼は初めはまさかと思った。次には、自分もと、思いつめた。そして最後に、矜持《きようじ》と今までの教育の惰性が彼をひきとめた。  そのような、暗澹《あんたん》たる気持を抱いて彼が八回目の職を必死に求めていた、三月初めのある夜のこと、この奇妙な事件が、彼の灰色の生活に、一輪の美しい薔薇《ばら》のように芳《かんば》しく開いたのである。  彼はその夜、当てもない就職運動に、疲れた足をひきずりながら、新宿の人混みの中を、そこはかとなくさまよいつづけていた。家に帰っても、今更どうにもしようなく、ことにこの春の夜の、なまめいた空気が、彼の心に、何となく、人恋しい感情をいだかせた。  その時、向こうから歩いて来た、一人の若い洋装の女が、ショー・ウインドーの光に照らされた、彼の顔を見るなり、途端に顔色を変えて、その場に立ちすくんでしまったのだ。  淡いグリーンのオーバーに、黒エナメルの鞄《かばん》を右の肩から吊《つ》るし、赤皮のハイヒールをコツコツと舗道《ほどう》に鳴らして、歩いていたこの女が、たしかに自分を見つめている。  伊吹京作は、何かしら、わけの分からぬ、ふしぎな戦慄《せんりつ》を感じた。  大して美人というほどではない。しかし溌剌《はつらつ》とした、男好きのする、円顔のどこかにあどけなさの残っている顔…… 「もし、ちょっとお待ちになって下さい」  何気ない風を装って、側を通り過ぎようとした彼に、女は静かに声をかけた。 「何か……自分に御用ですか」 「ええ、あなたです。あなたにちょっと、申し上げたいことがありまして……」 「と、おっしゃると、何でしょうか」 「あなたは、これから間もなく、物すごい好運が訪れて来ますよ。それも必ず一週間以内に……」 「どうして、そんなことが分かります」 「わたくしハルピンにおりました頃《ころ》、人相の方はずいぶん研究したのですもの……決して外れっこはありませんわ。何だったら、いま少し、くわしいことを申し上げましょうか」 「ええ、どうぞ」 「でも立話じゃ、何ですわね……」  女はあたりを見廻《みまわ》して、静かに笑った。 「その辺の喫茶店まで、御一緒に参りましょうか。いいえ、御心配はいりませんのよ。あなたに御散財はおかけしませんわ」  女のいうことは、何となく変わっていた。だが彼としては、何といっても、気がかりな言葉であった。 「もしお差し支えなかったら……」 「御一緒に行って下さいます? ありがとう。では参りましょう」  女は先に立って歩き出したが、彼はこの女にふしぎな好奇心を感じ始めた。身なりも決していやしくない。夜の女や、社交喫茶の客ひき女とも思えない。だがその正体は……  女は彼の方をふり返って、微笑《ほほえ》みながら、ある喫茶店へ入って行った。そして幾枚かの食券を、自分で買った。見るともなしに、チラと横目で睨《にら》んだ彼は、そのハンドバッグの中に、幾万円かのギッシリ分厚い札束が入っているのに気がついた。 「お忙しいところを、お暇を取らせて申しわけありませんでした……」  テーブルをはさんで、彼と相対した女は、叮嚀《ていねい》に口を開いた。 「いや、こちらこそ、かえって御馳走《ごちそう》になどなって……」 「そんなこと、ちっともかまいませんわ。それよりあなたが、幸運をつかんだ時には、こうした女のあったことを思い出して下さいな」 「その幸運っていいますと……」 「莫大《ばくだい》な金と名誉……。それも遠いことではありません……」 「本当でしょうかしら……」 「本当ですとも。今のお仕事は……」 「あいにくあわれなルンペンなので……それで一体、私はどんな方面で名声を博することになるのでしょう」 「それが、ちょっと変わった……犯罪捜査の秘密探偵としてなんですのよ」 「とんでもない! 私は元陸軍大佐でしたが、この敗戦で尾羽打ち枯らして、この通り……その方面の仕事には、伝手《つて》も経験も抱負も何もありませんし、それはあなたのとんだ買いかぶりでしょう」  しかし女は真剣だった。 「いいえ、わたくしの申すことには、全然間違いありませんわ……これでも、わたくしはふしぎな女で、一度こうと思いつめると、矢も楯《たて》もたまらなくなってしまいますのよ。さあ、わたくしに、あなたの身の上話をなさっていただけません。何とでもお力にはなりますわ……」  たしかにふしぎな女であった。だが彼としては、その言葉の裏まで、疑って見る余裕はなかった。命令と服従の関係だけで動いていた、過去の生活の惰性から、必要以上に臆病《おくびよう》になっていた彼は、女にくわしく、自分の身の上話をして聞かせた。 「お気の毒ですわね。それではいいお勤め口をお世話して上げましょうか」  たえず男の顔に、穴のあくほど視線を浴びせていた、この女は、同情するように、口を開いた。 「ええ、よろしかったら、お願いします」 「俸給にお望みがありまして……」 「いや、別に……」 「二万円ぐらいではどうでしょう」 「二万円ですって! いったい仕事は何なのです」 「私立探偵の助手ですわ。別に何も難しいことはないのよ。あんな仕事なら、どんな方にもできますわよ……ことにあなたの人相からいったら、きっと間もなく、その方面で頭角をあらわせますわ……」  彼にはまるで、狐《きつね》につままれたような、上手《うま》すぎる話であった。暗澹《あんたん》たる前途に、雲を破って閃《ひらめ》いた、ただ一筋の希望の光……彼はいま、天にも昇らん思いであった。 「いかがです。御紹介して差し上げましょうか」 「ぜひ……ぜひお願いします。あなたは再生の恩人です。一生恩に着ますから……」 「何もそんなに、大層なことをおっしゃることはなくってよ。それではここへ、明日のうちに、おいでになって……」  女はハンドバッグの中から、便箋《びんせん》と封筒とをとり出すと、万年筆でサラサラと、簡単な手紙をしたため、封をして彼にわたした。 「中にも書いてありますが、鈴木|園絵《そのえ》からだ、とおっしゃって下さいな」 「ありがとうございました」 「いいんですのよ。袖《そで》すり合うも何とやら申しますじゃございません。この手紙の宛名《あてな》の今野さんにお聞きになっても分かりますが、わたくしまるで、むかしの侠客《きようかく》みたいなとこがありますのよ。これと思ったお方には、どうしても一肌ぬいで見たくなりますの。いかがでしょう。今晩はごゆっくり、おつきあいしていただけません……」  微醺《びくん》を帯びて、女とともに自動車で、家の前まで乗りつけた彼に、妻は詰《なじ》るような目を上げた。しかし、彼が、陸大当時の友人に会って、久しぶりに御馳走《ごちそう》になったんだ。就職口も世話してやるといわれたよ、と都合よく嘘《うそ》を並べたてた時には、ほっと安堵《あんど》の色を浮かべた。その生活に疲れきった、やつれた姿を見るにつけても、彼は思いがけなく、舞いこんで来た幸福に、陶然《とうぜん》とし、それにつけても、今夜の女も美しく思うのだった。  その翌日、彼は教えてもらった住所に、私立探偵、今野章一の事務所をたずねた。巣鴨《すがも》の駅を、降りてしばらく歩いた、素人家《しもたや》ばかり続いた街の外れに、木造二階建ての小さな建物がある。その事務所は、その家の二階にあった。  急な階段を上って、ガラス戸をたたくと、中から三十七、八の、目の鋭い、俊敏な感じのする男が、静かに扉《とびら》を開けた。 「鈴木園絵さんからの御紹介ですが、今野先生はいらっしゃいますか」 「ああ、今野は私ですが、まあお入りなさい……」  殺風景な、何の装飾もない部屋であった。十畳ぐらいの洋室に、テーブルが一つ、事務机が一つ、鍵《かぎ》のかかった書棚が一つあるだけの、寂寞《せきばく》とした部屋であった。 「あなたが伊吹さん……御就職の依頼ですね……」  手紙の封を切って、目を走らせていた相手は、射るような、爛々《らんらん》と光を放つ目で、彼を見つめた。 「はい。そうです。何も出来ないものですが、鈴木さんの御言葉に甘えて上がりました」 「履歴書をお持ちでしょうね……」 「はい。こちらに……」  それから型通りの質問が、三十分ほど続いて、男は愉快そうに笑った。 「結構です。それでは明日から、働いていただけますか。俸給は鈴木さんの手紙の通り二万円、毎月二十五日には、お渡しします」 「どうぞよろしく、お願いします」  採用試験としては、あまりにも無雑作なので、かえって面喰《めんくら》った始末であった。 「ですが仕事は……仕事は私に勤まりましょうか」 「何も難しいことはありません。午前八時にここへ来て、午後の四時まで、つとめていること。毎日新聞を見て、株の上がり下がりのグラフを作ること。犯罪事件のスクラップを作ること。電話の取りつぎと、来客の応待をすること。ですから、遅刻早退は絶対に許しません。欠勤は必ず電話で断わることと、あまり欠勤が激しいようなら、その時はこちらにも、考えがあります」 「いや、体には絶対に自信がありますから、滅多に欠勤などはしないつもりです」 「それは結構。それからこの仕事は、絶対に秘密を守ることが必要です。この事務所でどんな事件があった、どんな仕事をしているか、家族の方にも、一言も口外してはいけません。守れますか……」 「絶対にお約束します」 「それから、こんな仕事ですから、私はしょっちゅうここを空《あ》けています。その間あなたは一人なのですが、監督が不行届だからといって、サボるようでしたら、いつでもやめていただきますよ、よろしいですか……」 「大丈夫です」 「それではもう結構。明日の八時にここへ来て下さい」  彼は最敬礼をして立ち上がった。 「本当に、何とお礼を申し上げてよいか、言葉もない位です。鈴木さんにもお礼を申し上げたいと思いますが、お所を教えていただけませんか」 「いや、あの人の住所は、ちょっと事情があって話せません。時々ここへも来ますからその時お礼をいったらいいでしょう」  その翌日から、伊吹京作の奇妙な勤務は始まった。確かに、奇妙の一語に尽きる。  仕事の量は、あまりにも少なく、そして俸給は、その仕事に比べて、あまりにも多いといえるのだった。株のグラフを作る仕事は、午前中にはすんでしまった。来客といっても、全然一人もなかったし、今野章一がこの事務所へ姿を現わすこともまた、極めて稀《まれ》なことであった。ただ電話は、ひっきりなしにかかって来た。その度《たび》に、彼は階下に降りなければならなかったが、その相手は、きまって今野章一である。彼は何だか、薄気味悪くなってきた。  だが何度事情をたずねても、今野章一は笑っていた。 「私立探偵の仕事なんて、年中忙しいもんじゃないよ。一年に五、六回、大きな事件の依頼があれば、それで結構やっていけるんだ。何も心配することはないさ……」  しかし、彼が心配するほどのことはなく、毎月二十五日には、きちんと約束通りの俸給が支払われた。  このようにして、四か月近くの時が過ぎた。七月初めのある日のこと、珍しく今野章一が、朝から事務所に姿を見せた。 「伊吹君。この四か月の間、僕はずーっと君の勤務状態を観察していたんだがね。鈴木さんの言葉通り、期待にそむかぬ人だということが分かった。それで明日は重要な仕事を頼みたいんだが、やってくれるかね」 「はい、私で出来ますことなら何なりと」 「いや、そんなに難しい事じゃないんだ。とにかく明日は朝から、ずっと待機の姿勢をとっていてくれたまえ。分かったね」  もちろん彼には、否応《いやおう》のあるはずはなかった。その夜彼は、久しぶりに、屋台の焼鳥で一杯やって帰途につき、誇らしげに妻をつかまえて、語ったのである。 「おれも今度の事務所では、大分信用を博して来たよ。今日も所長がおれをつかまえて——伊吹君。君の手腕も人物も、いや大したもんだ。軍人の上がりなんて、物の役にも立たない、スクラップ同然の人間ばかりかと思ったら、いやすっかり見直してしまったよ。明日からは、僕の片腕として、縦横に手腕をふるってくれたまえ。と、こういうんだ……」  妻はもちろん、疑うことを知らなかった。それでなくても、今度の収入に満足して、——主人もこの頃《ごろ》では、おかげさまで、大変よい仕事にありつきましてね。貿易会社の部長なのよ。主人の前のお友達が社長でして、伊吹君のような人物を、遊ばせておくのはもったいない、一つ手伝ってくれたまえ、とおっしゃったのよ。月給は三万円、それにボーナス。大したことはありませんけどね……  と、隣近所や、友人に話しておったくらいだから……  その翌日はむしむしとした、雨もよいの曇天《どんてん》だった。梅雨《つゆ》がまだ、完全に上がっていない空模様のため、湿度が高く、いらいらしながら、待ちつづける京作の額には、いつの間にか、脂汗《あぶらあせ》がべっとり滲《にじ》み出していた。  十時半ごろ、小さな革トランクを下げて、今野章一が姿を見せた。何かいらいらした、落ちつきのない様子であった。 「ああ、伊吹君、大急ぎでこの洋服に着かえてくれたまえ……」  その中には、質のいい大分着古した灰色の背広と、赤皮の靴、青い靴下、渋いネクタイ、その外《ほか》一通りの男の支度が入れてあった。別にこれという疑問も起こさずに、彼は手早くその衣類を身につけた。それはあつらえたように、ぴったり体に合った。 「大分よく似合うね。それじゃあ、これから省線、地下鉄、東武《とうぶ》電車のコースをとって、北千住《きたせんじゆ》まで行ってくれたまえ、そこで降りて、歩いて千住新橋を渡って、こういう料理屋へ行って、一部屋借りて休むこと。昼飯は食っちゃいけない。何かとってもいいけれど、絶対に箸《はし》をつけちゃだめ。ビールや酒なら飲んでもいいが、おつまみ物だって食べちゃいけないよ。それから五時になったらそこを出て、常磐《じようばん》線の土手を、ブラブラ歩いていること……次の行動は、そこで指示するから……」  彼には全然、その行動の意味が理解出来なかった。 「何のために、そうしたことをするんです」  男は嘲《あざけ》るような視線を、彼の顔に投げた。 「君も案外、分からない人だね。軍人生活の経験は、いったいどこへいったんだい、何か命令が与えられた時、その命令の理由を、君は一々反問したかね。僕の仕事に必要だからそうしてもらうんだ。もしそれが出来ないようだったら、今日かぎり、この仕事はやめてもらうからね……」 「いや、決してそうしたつもりで、申したのではありません、それではその通り、実行いたします」 「結構、結構。それから、途中ではなるたけ口数を少なくして、必要以外の話はしないように……それと、自分の名前や身分は明かさぬこと。分かったね。いま一つ、この眼鏡《めがね》は少し度が強いかも知れないが、我慢して電車を降りたら、これをかけていてくれたまえ」  たしかにそれは、相当に強い近眼鏡だった。七、八度ぐらいはあるだろう。ちょっとかけただけでも、眼がクラクラとして、頭の芯《しん》がズキズキ痛んだ。 「それでは、すぐ出かけてくれたまえ。これは交通費と料理屋の払い……」  二千円の紙幣が、彼の手にわたされた。 「では行って参ります」 「ああ、気をつけて、間違いないよう、たのんだよ……」  実に不思議な仕事であった。決して、難しいことではないが、何のために、こうしたことをしなければならないのか……彼には、それがどうしても、理解はできなかったのである。しかし秘密探偵という職業からいって、それは仕方のないことと思える節もないではなかった。その上に、大きな組織の中に生き、その組織を離れては、弱い力に過ぎなかった。彼には一つ一つの事柄に対する、柔軟な判断力が欠けていた。彼はその命令通りに、その日一日を、行動する以外には、外《ほか》に方法もなかったのである。  幸いに、彼を怪しむ者もなかった。当然のことではあるが、誰《だれ》一人声をかけようとする者もなく、省線、地下鉄、東武電車と、彼は指定された目的地へとたどり着いた。  目まいがするのを我慢して、彼はポケットからとり出した近眼鏡をかけて、指定された料理屋へ入って行った。 「ちょっと夕方まで、休ましてもらいたいんだがね。部屋はあいてるかい……」 「はい、ただいま……」  女中も女将《おかみ》も、疑う色を見せなかった。通された奥の座敷の六畳で、彼は眼鏡を外《はず》し、座布団《ざぶとん》を枕《まくら》にして、横になった。慣れない、度の強い眼鏡をかけて歩いたので、頭が痛んでたまらなかった。 「はい、お待ち遠さま……」  ビールとおつまみ物が運ばれて来た。何気なく、手を出そうとして、彼はあの指令のことを思い出し、はっとして手をひっこめた。  女将《おかみ》の愛想よく、話しかける言葉にも、彼はただウンウンと答えるばかり、使命の重大さに対する責任と、今度こそ腕の見せ所だという緊張のあまり、彼は必要以上に無口になった。  おかしな客だと、思ったかは知れないが、客商売のそこは如才もなく、彼は五時まで、何も考えずに退屈な時間を過ごした。  指定の時間、彼は勘定をすまして、そこを出た。常磐線の線路の土手はすぐ目の前……  彼はその上を的《あて》もなく、行ったり来たりして過ごした。子供の頃《ころ》の思い出や、陸軍当時の大演習の思い出などが、チラチラと、彼の脳裡《のうり》をかすめて過ぎ去った。何ということもなしに、草を千切ってポケットへ……蜻蛉《とんぼ》とりの帰りらしい子供が四、五人、サラリーマンらしい男が一人、じっと此方《こつち》を眺めているのに気がついた彼は、思わず恥ずかしくなって歩き出した。宵闇《よいやみ》が迫って来る。雨もよいの空に夕陽《ゆうひ》の色もなく、あたりはいつしか、深い夜の闇に閉ざされた。 「伊吹君……」  何度目か、線路の土手を上下している中に、背後《うしろ》から呼びかける声があった。はっとして、ふり返ると、そこには香りの高い外国|煙草《たばこ》をくゆらしながら、今野章一が立っていた。 「はい……」 「いいつけた通りの仕事はすませたかね」 「はい、その通りにいたしました」 「それは御苦労。それではこちらへ来てくれたまえ」  線路に沿って、しばらく歩きつづけると、その右手に、線路工夫が材料置場にでも、使用したのではないかと思われる、一軒の古い小屋が立ちぐされになっていた。 「ちょっとこの中へ……」 「はい……」  彼は何の不審も起こさずに、その中へ入った。今野章一は、手に下げていた、小さなトランクの蓋《ふた》を開いて、彼の洋服を取り出した。 「さあ、それじゃ、服を着かえたまえ。あッ、君、眼鏡は……」  何しろ眼に合わない、度の強い近眼鏡であったし、殊に夕闇《ゆうやみ》が迫った後では、彼はとても、それをかけては歩けなかった。たしかに外して、ポケットに入れて歩いていたつもりだったが…… 「大変なことをしてしまいました、どこかで落としてしまったようで、申し訳もありません……」 「仕様がないね。まあ、いいさ。大したことじゃないんだから、そんなにくよくよしなくてもいいよ……」  彼は手早く洋服を着かえると、今野章一は、それをトランクに詰めかえて、小脇《こわき》にかかえた。 「どうも、今日は御苦労。明日はいつもの通り、事務所に出て来てくれたまえ……」  この不可解な任務を終わって、彼は何か知れない、奇妙な後味を感じながら、家へ帰った。何彼と話しかけて来る妻にも、一言も答えもせず、早目に床に就《つ》いた彼は、翌日いつもの同じ時間に事務所へ出た。  間もなく、電話で呼びかける声、今野章一であった。 「伊吹君、お早う。今朝の新聞を見たかね」 「急ぎましたので、見て参りませんでしたが……」  相手はかすかに笑っていた。ひくい、ぶきみな笑いであった。 「そうかね。事務所の新聞をよく読むんだね。それから、君にいっておくが、君がこれから、どんな行動をとるのも、君の自由だが、君が昨夜の行動に、あくまで職業的な秘密を守るなら、君との雇傭《こよう》条件は、これまで通り継続するし、もし君がこれを他人にもらすようなら、この条件は一切破棄。いや、そればかりではないよ。僕たちの力は、今朝の新聞を見れば、よく分かるはずだからね。君だって、あんまり安心してはおれないよ」  何かふしぎな余韻《よいん》を、後に残して電話は切れた。震える足で、階段を踏みしめて、二階へ上がると、彼はその日の朝刊を開いた。  いや、開くまでもなく、彼の目に飛びこんで来た、一面全部を埋めるような大きな記事は……  彼は愕然《がくぜん》として踊り上がった。自分の眼さえ、信じられない思いであった。  某高官が、昨夜北千住付近の鉄路で、謎《なぞ》の最期をとげたという! そしてその顔は、まさに自分と瓜二《うりふた》つ!  彼はおどり上がって、ふたたび階下へかけ降りた。 「君、階上の事務所の今野さんて人は、ありゃ何だい。いつからこの事務所を借りているんだい……」  階下の事務所の事務員は、驚いたような顔をして、彼を見つめた。 「伊吹さん、あなたは自分のつとめている、会社の社長のことも知らないんですか。住所はこれこれ、あなたの勤める半年ぐらい前から、ここを借りたんですよ……」  彼はあたふたと、住所を記した紙片を、つかんで事務所を飛び出した。そして必死に、その住所を探し廻《まわ》ったが、今野章一の住居など、全然発見出来なかった。  彼は買って来た夕刊をむさぼり読んだ。一夜を一睡も出来ずに明かし、配達された朝刊を、新聞配達人の手から、ひったくるようにして目を通した。  日本では、前例のないような死体であるために、他殺か自殺か、容易に結論は出ないという、捜査当局の発表であった。  そして、自殺説の論拠《ろんきよ》として上げられた、最有力の手がかりは、その高官がその日のうちに、ただ一人、北千住のある旅館にあらわれたという事実と、その日の夕方、現場付近の土手の上を、それらしい男が歩き廻っていたという、事実であった。  それはまさしく、彼のその日の行動と、一致していた。  彼はもはや、何をする勇気も残ってはいなかった。妻に電話で、病気欠勤の旨を、事務所に断わらせると、床に入って、麻のように乱れた頭で、事件の内容を判断して見た。  その高官は朝九時、日本橋《にほんばし》のあるデパートの入口へ、車を乗りつけたきり、行方不明になったのだ。そして同じ日の夜中過ぎ、現場で無惨《むざん》な轢死体《れきしたい》となって発見された。  その間の行動は、深い疑惑の霧に閉ざされて、誰《だれ》のうかがうすべさえない。ただチラと、その闇《やみ》の間に閃《ひらめ》く、一筋の光……だがそれが、この高官自身の行動ではなくして、彼と瓜二《うりふた》つの容貌《ようぼう》を持ち、彼の服装をそのまま借りた、自分の行動だったとしたら、いったいこの事件はどうなるのだ!  彼はその日から一週間、枕《まくら》から頭の上がらぬ病人となった。そしてどうにか、起き上がれるようになった日、妻は彼に一通の封書を示した。  中には、便箋《びんせん》にペンの走り書きで、 「先日は御苦労様でした。御病気の由、心配いたしております。一日も早く、御全快の上、職場に帰られるように祈ります。同封の金子は御見舞のおしるしまで。  今野章一」  と、記されていた。 「おい、この金はどうした」  と、彼は妻に怒鳴りつけた。 「もうとっくに郵便局からおろして来て、手をつけましたわよ」 「馬鹿、何だって俺《おれ》に一言も断わりもなく」 「だって、あなたの御病気に、子供の学校、いろいろお金もかかりますしね。でも所長さんっていいお方ね。二万円ありましたわ」 「おい、金をくれ——」 「あなた、だめよ。まだお体がすっかりよくお治りになってはいないのに……」  彼は答えもせずに、フラフラと街へさまよい出た。そして行き当たりばったりの屋台へ飛びこむと、苦い酔わない酒の杯を、いくつともなく傾けた。  彼はあの時まで、自分を永久に見捨てられた、失われた鎖《くさり》の一つの環だと思っていた。だがいつの間にか、その環は別な鎖に、結びかえられていた。自分でさえ、その端がどこまで続いているか、分からぬほどの恐ろしい一つの犯罪の鎖であった。  たとえ自分が名乗って出ても、どうして次の環を発見することが出来よう。あの男も女も、何の手がかりも残してはいないのだ。  彼はふたたびあの職場へ、帰って行こうと考えた。それは目に見えぬ犯罪の環の、一つとしての役割を、甘受しようとする、打ちひしがれた人間の、淋《さび》しい諦《あきら》めの姿であった。  脱獄死刑囚     一  どんなに施設の完備した近代的な刑務所でも、脱獄を絶対に防止することは、不可能なことだといわれている。  それもまた、考えようによっては、当然のことかも知れない。脱獄を企てようとする人々は、いわば決死の覚悟なのだ。新たに脱獄の罪が加わることによって、その刑罰がどれほど重くなるかという計算は初めから、彼等の頭の中にはない。  それに対して、刑務所の所員たちは、いわば事務的、官僚的に、その日その日の仕事を続けるだけなのだから、その警戒に何かの隙《すき》が生じたとしても、それは人間としては、ある意味でしかたのないことだともいえるだろう。本能的な、動物的な、絶望的な脱獄囚の計画が、時には看守たちの油断に乗じて、奇蹟《きせき》的な成功をおさめたとしても、それは決して怪しむにはたりない。  だが、別の意味では、脱獄という犯罪は、ほとんどその目的を達することが出来ないのだ。たとえ、五メートルの高さを持つ、刑務所の塀《へい》は乗り越えられたとしても、ほんのしばらく、自由な世界の空気は呼吸出来たとしても、きびしい司直《しちよく》の追及が、その身にのびて来ることは、単なる時間の問題なのだ。  金もなく、味方もなく、ただ一人この社会につっぱなされ、組織的な捜査陣に追われながら、その追及を逃れるということは、ほとんど不可能なことなのだ。何時間か、何日かの後には、彼は捕えられ、もとの刑務所につれもどされる。百に一つの例外もなく……。  だが、この死刑囚、田宮力三の脱獄だけは、その珍しい例外だった。  彼が差入れ品のどこかにかくしてあった小さな金鋸《かねのこ》で、T刑務所の独房の窓の鉄棒をすりきって、そこからひそかに屋根へのがれ、闇《やみ》から闇へと伝わって、ついに脱獄に成功したというニュースは、その翌朝のラジオで、全関東に放送され、さらにその日の夕刊には、一層くわしい模様が伝えられた。 「私に、ここ暫日《ざんじつ》の命をお許し下さい」  と、独房の壁には書き残してあったという。暫日の命——それは?  刑務所側も、警視庁も、そしてその活動を反映する新聞社も、それをせいぜい十数時間、長くても二、三日と予想した。  脱獄後四十八時間——彼の行方はどうしても判明しなかった。法規によって、T刑務所は、彼の行方を追う権限を失って、その捜査はすべて、警視庁の手にまかされた。  三日、四日、五日……十日……初めは、たかをくくっていた警視庁も、しだいにいきりたって来た。こんな事件は、二日もすればかたづくだろうときめこんでいた新聞社も、なかなか、その報道を打ちきることが出来なかった。  東京都内に逃げこんだことは、ほぼ確実と推定され、彼らしい人物の姿を見かけたという訴えは、何十回となく新聞紙上に報道されたが、そのどれも、結局幻影にすぎなかった。  東京都民は、日ごとに高まって来る不安の情をどうすることも出来なかった。血に飢《う》えた凶悪な殺人犯、自暴自棄となった脱獄囚が、いつ何ん時、闇《やみ》の中からあらわれて、自分たちの身に襲いかかって来るかも知れないという、恐怖の念にとらわれたのも、むりのないことだった。  田宮力三は、今年三十八になる。シベリアからの引揚げ者だった。何年かの抑留生活の後に故国へ帰って来て、親も兄弟も失い、何のよるべもなく、終戦後の混乱の中へ投げこまれた彼が、転落の一途をたどりつづけたとしても、それほどふしぎはないことなのだ。  彼がどこからか手に入れた拳銃《けんじゆう》で、白昼K銀行へおしいり、非常ベルによってかけつけた警官を射殺し、さらに自動車の運転手まで射ち殺して、米国ギャング映画を地で行ったような数時間の逃亡の後に捕えられたのは、ちょうど三年前のことだった。  この犯行に対しては、何等弁護の余地はなかった。第一審の判決は死刑、第二審の判決も死刑、そして最高裁判所の判決も、死刑と決定されることは、火を見るよりも明らかだった。彼が脱獄を企てた心理も当然うなずける。たとえ、その計画に失敗して捕えられたとしても、これ以上罪の重くなる恐れはなく、またおとなしく断罪の日を待ったとしても、罪の軽くなることは絶対に考えられないのだから……。  この脱獄の方法が、しだいに明らかになって来たとき、東京都民は、その巧妙な作戦におどろかずにはいられなかった。  彼には君枝という妻がいた。自分の夫の恐ろしい正体を知りながら、しかも離れて行こうとしない忠実な妻だった。  君枝はこの刑務所から、歩いて間もないところにアパートを借りたのだ。独立した玄関のついている、長屋のような建築だから、夜中に誰《だれ》かがとびこんで来たとしても、人目にかかる恐れはない。  その脱獄の計画が、どうして二人の間に相談されたのかは知れないが、とにかく、田宮力三は刑務所を脱走して、すぐこのアパートへ逃げこんだのだ。そこで二日の日をすごし、顔見知りの刑務所の看守たちが警戒を解いて、もとの配置に帰るのを待って、君枝と二人肩をならべて、白昼警官たちの眼の前を悠々《ゆうゆう》と通りすぎ、T刑務所とは眼と鼻の間のT駅から電車に乗って、東京都内へ入りこんだのだ。  眼鏡《めがね》や、ふくみ綿ぐらいの簡単な変装はしていたろうが、このあまりにも大胆な計画が、みごとに捜査網の盲点をついて——完全に近い成功をおさめたのである。  この脱出から二日の後、今は脱殻《ぬけがら》となったこのアパートを発見した当局は、じだんだふんでくやしがったが後の祭りだった。その押入れの中には、彼が刑務所の中で身につけていた衣類が、そのまま人々を嘲《あざけ》るように、残されていたのである……。  力三の行方も、君枝の行方も知れず、そのまま時はすぎて行った。たとえ、君枝がしばらく二人で暮らせるぐらいの費用をたくわえていたところで、それを使いはたすということは、単に時間の問題だし、それがなくなった時には、ふたたび新たな凶行が行われるのではないかと、捜査当局も、一般の東京都民もただそれだけを恐れていたのだ。  そうした心配も杞憂《きゆう》ではなかった。彼の脱獄後十四日目——田宮力三の犯行と推定されるある凶悪な殺人事件が、突如として東京都内に発生したのである……。     二  その夜は特にむしあつかった。夜中になっても、気温はなかなか三十度を下らず、風もすっかり絶えてしまった。まるで、瀬戸内海に独得の気候といわれる夕凪《ゆうなぎ》が、東京湾にあらわれて、武蔵野《むさしの》を包んでしまったような感じがした。  警視庁捜査一課につとめている江藤武男警部は、その夜十一時ごろ、K駅へおりて暗い道を家へ急いでいた。何はともあれ、裸になって、行水をつかい、冷たいビールの一杯もひっかけたくってたまらなかったのだ。  警部の家は、T町にある。このK駅からは歩いて十分の距離なのだが、世田谷《せたがや》もかなり奥へ入ったこのあたりでは、駅のすぐ近くにまでずっと畑がのびている。商店街なども、駅のほんの近くに集まって、さびしい街をつくっているばかり、五分も歩くと、そこをつきぬけて、静かな住宅街に入ってしまうのだ。  突然、警部は立ちどまって、はっと耳をすました。たしかに銃声、そして断末魔の悲鳴のような叫び声が、どこからか聞こえて来たのである。  ふたたび、鋭い音がひびいた。疑う余地もない。それも間をおいて、二発、三発。そして人殺し! と叫ぶ声がつづいた。  職業柄、警部は一瞬の間に、その方角と距離とを、直感的に測定していた。大地を蹴《け》って、彼はその方向へかけつけ、電柱を楯《たて》に身がまえながら、眼の前の空地《あきち》をよろめくように歩いている人影にむかって呼びかけた。 「拳銃《けんじゆう》を捨てろ! 捨てないと撃つぞ!」  その男は、左手で右の二の腕をおさえながら、ぽたりと右手に握っていた拳銃をおとした。警部は、すばやくその前に歩みより、地面の拳銃を靴でおさえながら、 「どうした。貴様がやったのか?」  四、五間むこうに、大の字にうつぶせに倒れている、いま一人の男の姿を見つめ、突き刺すような声でたずねた。 「あなたは、あなたは警察の、方ですか?」  相手の声はふるえていた。一言、一言ごとに興奮の度を高めて、 「人殺しです! 私じゃありません。やつが、あの刑務所から逃げ出した死刑囚が、私の友達を撃って、むこうへ逃げたんです。私もとびついて、ピストルをもぎとったんですけれど、腕をやられて……」 「脱獄死刑囚の田宮が?」  いつかは必ずあらわれると予想していた人物だった。だが、彼がところもあろうに、自分の家とは眼と鼻という場所にあらわれ、しかも彼の帰りを待ちあわせていたように、その鼻先で、殺人を犯したとあっては、警部も激しい興奮に思わずわれを忘れていた。 「どうしてわかった? 田宮力三と?」 「新聞で、何度も写真は見ましたし、その街灯の光で、顔は……たしかに間違いありません」 「それで君たちはいったい……」 「私は、ここにやられている友達を駅まで送ってやろうと思って、ぶらぶらとここまでやって来たんです。そしたら、あそこのかげから、あいつがぬっと出て来て、金を出せ——とピストルをつきつけて……私は命あっての物だねだと思って手をあげたら……この友だちがいきなり横からとびかかって、そのまま撃ち殺されたんです……私はいったいどうしたのか、気がついたら、あいつと組んずほぐれつ、ここを転がりまわっていて、その時、腕をうたれたらしいんです……それでも、何んとか、人殺し、人殺しとどなりながら、このピストルをもぎとったんで、相手もしまったと思ったのか、いきなりとび上がって逃げ出して」 「うむ……」  相手のワイシャツにべっとりと、赤い血がにじみ出していることにこの時まで気がつかなかったくらい、警部はわれを忘れていたのだ。 「これはいけない。怪我《けが》をしているじゃないか?」 「大したことはありません……」 「いや、いけない。早く手あてをしないと」  警部はぐるりとあたりを見まわした。ちょうど、そこへ、やはり銃声を聞いてかけつけたのか、二人の警官が走って来るのを見て、 「君、田宮力三らしい男があらわれたのだ、すぐに付近へ非常手配を……。それから、君はこの方を、近くの医者へつれて行って、応急手当てをたのんだよ」  と、命令した。警部の顔を知っている二人の警官は、はっと敬礼して、すぐに活動を開始した。かがみこんで、地に横たわっている男の手首にさわって見ると、完全に脈はたえている。 「畜生! あきれた真似《まね》をするもんだ!」  この脱獄死刑囚、田宮力三の前歴を知りぬいている警部でさえ、罵《ののし》らずにはいられなかったくらいの残虐な犯罪だった。  間もなく、このあたり一帯には、水ももらさぬ非常線がはられた。たとえ、夜の間は、どこかに姿をひそめていたとしても、畑や林の中をつっ切って、最も内側の囲みだけは破って逃れたとしても、夜が明ければ逮捕は時間の問題だと、警部も満々たる自信を持っていたのである。  しかし、この死刑囚、田宮力三には、こうした包囲網から逃れる天才的な才能が備わっているのだろうか。今度も大魚は完全に網から逃れきって、虱《しらみ》つぶしの捜索も、その足跡さえ確認することは出来なかった。  この生き残った被害者は、やはりこの近くに住んでいる野呂《のろ》元太郎という男だった。ちょうど四十二の厄年《やくどし》で、三年前に妻に死なれてからは、妾《めかけ》か女中かわからぬ女と二人で、かなりの広さの家に住んでいる。正式な届け出はしていないが、金貸しで、その金利で生活しているのだ。  殺された男は、彼の軍隊当時の部下で、生命保険の外交員をしている浦野重吉という男だった。 「皮肉なものだね。この被害者は、自分の殺されることも知らずに、他人に保険の勧誘をして歩いていたのだろうね。人間というものはいつ何ん時、どんなことがあるか知れませんし……何しろ、死刑囚が刑務所からとび出して、未だに捕まらないような始末ですからねえ——と、そのぐらいのことは、いって歩いていたかも知れないよ」  と、警部は後で感慨深そうに、妻に話してやったのだ。  野呂元太郎の右腕の傷は、ほんのかすり傷の程度だった。筋はいくらか、ひっつるかも知れないが、二週間もすれば、ほとんどもと通りになるだろうという医者の診察だった。もちろん、彼はそれから何度となく警察の取調べをうけた。しかし、その言葉には、それほどの誇張や、誤りはないだろうと推定された。  この空地《あきち》の片隅に落ちていた、安っぽいアルマイトのシガレット・ケースがその証言を裏づける重大な証拠となったのである。  恐らく、犯人はこの空地で煙草を吸いながら、適当な鴨《かも》の通るのを待ちかまえていたのだろうか。拳銃《けんじゆう》の指紋は、たがいにそれを奪いあおうとし、後で元太郎の手にわたったのだから、はっきり検出は出来なかったが、このケースの方には、あざやかな指紋がいくつか残っていた。その指紋は、警視庁に残されてある、何万枚かの指紋カードの中の一枚、殺人犯田宮力三のものと、寸分の相違もなかった。     三  それからさらに十日はすぎ、しかも田宮力三はまだ捜査網のどの末端にも接触して来なかった。  江藤警部は、二重三重にうちのめされたような気がした。自分の眼の前で殺人を行われたというのが第一の打撃、そしてその日のうちに、彼を捕え損《そこ》なったのが第二の失策、そして第三の衝撃は、この死刑囚の今後についての彼の予想が、みごとにはずれたことだ。 「なに、やつはもう二、三日中につかまりますよ。たとえ、今度も網から逃れたとしても、逮捕は時間の問題でしょう。何しろ、ああして、追いはぎのような真似《まね》までやってのけなければならないほど、金に困って来たんでしょうから、三日もたてば、また次の芝居をやり出すでしょう。そうそう、ピストルは手に入りますまいし、今度は必ず捕まりますとも」  その二日後には、板橋《いたばし》で、男女の二人づれが、路上で凶漢に短刀をつきつけられ、二千円ほどの現金をうばわれたという事件が起こった。その男は、たしかに田宮力三と名のっていた。ただ、年もわかく、前車の轍《てつ》にこりているだけに、この二人は金を投げ出すと、宙を飛ぶように逃げ出し、相手の顔を見ている余裕もなかった。  その翌日は北千住《きたせんじゆ》で、さらにその翌日の夜は杉並《すぎなみ》で、やはり同じような事件が起こった。しかも、田宮力三は依然として捕えられなかった。捜査当局、必死の努力をあざけり笑うような、大胆不敵な出没だった。  たとえば、説教強盗や鬼熊などのように、田宮力三という名前は、一つの象徴《しようちよう》となって来はじめた。しかし、説教強盗は決して人命をうばうことはなかったし、鬼熊は自分に無関係な人間は、あえて傷つけようともしなかったのに、この田宮力三という殺人鬼は、わずかばかりの金のために、何んの関係もない人間の命をうばってかえりみない——ということが、いまや伝説的となって来た。盛り場にも夜になるとばったり客の足がへり、警視庁に対する不信の声も、しだいに高くなって来た。  馬車馬のようだといわれる江藤警部もこのところ、めっきり疲労を感ずるようになった。年のせいかと思って見たり、例年にない暑さのせいかと思って見たりして、むりに自分をごまかそうとしていたが、ある夜、妻の佳子《よしこ》に、 「あなた、ずいぶんやせましたのね」  と、いわれてぎくりとしてしまった。 「やはり年だな。おたがいに、もうそろそろ無理がきかなくなって来た。だが、お前は今度の事件をどう思う」  佳子は大きな溜息《ためいき》をついた。 「大変ですわね。二十四時間、寝ているときにもお仕事のことが頭からはなれないんですものね。あなたは体で形を、頭で影をつかまえようとしているのね。夜、寝言で時々、あの男の名前を大声で……」 「おれも寝言をいうほどおとろえたか。だが影と形は、たえず一体のものだからな」 「そうでしょうか?」  妻の言葉にこもっていた、かすかな疑惑の調子を彼は聞き逃さなかった。 「影と形と、それが分かれることがあるというのか?」 「あります」 「たとえば?」 「たとえば今度の事件だと、男の性格と女の性格とが、はっきり分かれすぎてるじゃありませんか。もともと、真昼間に銀行破りをやって、それで成功出来ると思っているほど、単純な男なんでしょう。そんな男には、刑務所の窓を破ってとび出すことは出来ても、こんなに長いあいだ、逃げおおせることは出来ないと思いますわ」 「それはわれわれも気がついているよ。この脱獄の計画をたてたのは、きっと女の方だろうね。その女がかげについているから、こんなに見事に逃げおおせているんだろう」 「そうでしょうか? それにしちゃ、このごろ、男のやっていることが、あんまり無茶すぎるじゃありませんか?」  警部はぎくりと耳をすました。妻の言葉の内容よりも、その調子に動かすことの出来ない重さを感じたのだ。 「わたくしは何度も考えてみました。わたくしが、あの女の立場に立ったらどうするかしらとずいぶん真剣に考えました。あれだけ、綿密な脱獄の計画がたてられるなら、その後のことも考えないわけはないと、そう思って見たんです」 「というと、何か? 男の方が、女の指図にさからって、勝手|気儘《きまま》なことをやり出したと、こういうのか?」 「指図しようにも、女と男は、簡単に連絡の出来ないところに離れているんじゃありませんか?」 「はははは、それはお前の見込みちがいだろうな。あれだけの苦労をして刑務所の外へつれ出したのは何んのためだ。女としては、捕まるまで、一分一秒も男のそばをはなれたいとは思わんだろう」 「女というものは、いつでも女だとはかぎりません。時には神様となることもあり、鬼となることもあり、母親となることもあり、赤ん坊になることだってありますわ。この女だって、夫が一日も長く生きのびることを何より望んでいるのでしょう。自分で、脱獄の共犯までして、男をこの世につれ出せるほどの女なら、もっと大きなことのがまんも出来るはずですわ。たとえ、自分が捕まるようなことがあっても、男の方は、安全な場所へかくしておきたいでしょうね」  警部は、佳子の深く澄んだ瞳《め》をじっと見つめて、 「ははははは、負うた子に教わって、浅瀬をわたるという諺《ことわざ》があるが、おれは今まで、自分の仕事の方針をお前に教えてもらおうなんて、考えてみたこともなかったなあ。しかし専門家というものは、あんまり局部にこだわりすぎて、新鮮な感覚でものを見るということを忘れがちになるから、時には素人《しろうと》の意見というものも大いに参考になるものだ。われわれ夫婦の生活も、もう一度、素人の第三者の眼で見なおしてもらう必要がありそうだね」  警部は、彼には珍しく、仕事のことも忘れたやわらかな眼で、二十年子供にも恵まれずに過ごした妻の横顔をじっと見つめていた。     四  影を追うなかれ——という佳子の言葉は、江藤警部の心境にも、何か微妙な影響を及ぼしたようだった。彼はこの事件の係官一同を集めていいわたした。 「われわれは今まで、田宮力三という人物の名前を少し重く見すぎていたのではないか。たとえ、あのような経歴を持ち、今度脱獄してからも、たびたび凶悪な犯罪を重ねているとはいえ、結局、彼も一人の人間なのだ。ただの強盗犯人なら、警視庁捜査一課の全能力を発揮すれば、捕えられないということはないはずだし、この上ともに、一層努力をしてもらいたい」  こういう警部の信念が、たちまち末端にまで滲透《しんとう》して行ったのか、田宮力三と名のった強盗犯人が、浅草《あさくさ》で捕まったのは、その翌日のことだった。しかし、この犯人を捕えた刑事の方も、正体を知ったときには、唖然《あぜん》としてしまった。この相手は、まだ十八になったかならないかのチンピラだった。田宮力三という名前が、まるで悪魔のような力を持っているのにすっかり興奮して、場所をかえては絶えず、こういうたちの悪い悪戯《いたずら》をくりかえしていたというのだ。 「説教強盗の末期には、その真似《まね》をする第二世があらわれて、そのころから、もうそろそろ悪運が尽きかけたようだが、脱獄死刑囚の方も、こんな第二世があらわれたんじゃあ、年貢《ねんぐ》のおさめ時も遠くはないだろうね」  捜査一課の桂《かつら》課長は、こういいながら、警部の部屋へ入って来た。その眼にも、相手をはげますような、いたわるような、やわらかな色があふれていた。警部もすぐに座を立って、 「課長、短刀を持って田宮力三だと名のったのが、あんなチンピラだとすると、これは恐らく恐喝《きようかつ》罪にしか相当しませんね。この事件はもう一度、ふり出しに帰って、考え直さなければならなくなりましたな」 「ふり出し——というと、どこまで帰るんだ」 「十五日ばかり前ですね。あの拳銃《けんじゆう》を持ち出して、僕の家のそばで金貸しの親爺《おやじ》を撃ったあたりまで」  と、いいかけて言葉をのむと、警部はその時デスクの上で鳴りはじめた、電話の受話器をとりあげた。 「はい、こちらは江藤、あなたは、なに!」  警部も息をはずませた。最初は例によって例のごとく、たちの悪い人さわがせの悪戯《いたずら》かと思ったのだ。電話の声はたしかに女、少し調子は高いが、何んの駆引もはったりもない、深く沈んで一抹《いちまつ》の哀愁をただよわせつつ、 「江藤警部さんでいらっしゃいますか。わたくし君枝——田宮力三の家内でございます」 「田宮の女房が!」  手で受話器のふたをしながら、江藤警部はひくく課長にささやいた。ふたたび、汗ばんだ掌《て》をはずして、 「まさか、今日の朝刊を見て、二代目をつぎたくなったんじゃあるまいな」 「そうじゃありません。もし、お疑いなら、あの時アパートの部屋に残していた品物の名前を申しあげましょうか」  女の読みあげる品物の名前を、警部はまるで熱病の患者のように、身を戦《おのの》かせながらきいていた。 「たしかに、君のいう通りだ。それで用件というのはいったい何んだ? まさか、残した品物に未練が出て、それをとりかえしたくなったんじゃあるまいな。それとも自首をして出るつもりか?」 「あの人が生きているかぎり、自首などしません。ただ、今日のうちに申しあげておかなければいけないことが一つあるんです。わたくしは、今日殺されるかも知れません」 「殺される? 誰《だれ》に……田宮にか?」  電話の答えは声にならなかった。いまにも泣き出すのではないかと思われるほど、激しい息づかいが、しばらくの間つづいた。 「とにかく、誰かに……もしわたくしが殺されたら、明後日までに、この事件は解決します。もし、わたくしが生きのびられたら、まだ暫《しばら》く……」  すすり泣くような音と同時に電話は切れた。警部は呆然《ぼうぜん》自失の態《てい》で、受話器をもどしながらつぶやいた。 「朱に交われば赤くなる。亭主も女房も、あと暫日《ざんじつ》の命か……」 「本当の彼女か?」  警部に顔をすりつけるようにして、いまの電話に聴《き》きいっていた桂課長は、わずかに身をひいてたずねた。 「だと思います。もちろん、今まであったことも、声をきいたこともありませんが、あの声は、悪戯《いたずら》や芝居では出るものじゃありません」 「何んのために?」 「何んのために……」  おうむのように答えかえすと、江藤警部は眼をとじた。瞼《まぶた》の上をくるくると、いくつかの灰色の円板が回転していた。その円板が、火花をとばして激突すると、大きな二つの光と影の輪が生まれた。  警部は、あっと叫んでとびあがった。このほんの一瞬の幻想から、彼はこの事件を一挙に収束する、一つの手段を思いついたのだ。何んの手がかりもなさそうなこの事件、ばらばらの形で投げ出された幾つかの謎《なぞ》を割りきってあますことない、最大公約数を発見出来たのだ。 「そうだったのか……そうだったのか……」  桂課長が、自分の眼前に立っているのを忘れたように、彼は何度かくりかえしていた。 「どうしたのだ? 何か?」 「課長……」  思いつめたように、警部は顔をあげた。 「この事件は、恐らく今日中に解決でしょう。常識では想像も出来ないようなことですが……これ以外の解決は、まずほかには考えられますまい」 「材料は?」 「今の電話と、今朝の朝刊を頭へ入れて、もう一歩、ふり出しへ近づくんです。もう一歩、もう一歩……」     五  せまい、コンクリートの階段を、男が先に、女が後ろに一段ずつ立ちどまるようにしておりて行く。おたがいに、手に懐中電灯は持っているのだが、その青白い光はたえず下に流れて、その顔を照らし出すこともなかった。 「ここだ」  階段を降り切ると、男はせまい廊下にたって、小さな部屋の扉《とびら》を開けた。 「ここなの?」  暗黒の中を一瞬二条の光芒《こうぼう》が青白く尾をひいて流れ、水を流したようにしめっぽい裸のコンクリートの壁を照らし出したかと思うと、二条の光は、しめしあわせたように、パッと同時に消えてしまった。 「ここ、ここにあの人がいるというの?」 「いる!」 「どこに?」  言葉は短く鋭く、闇《やみ》に匕首《あいくち》のように飛びかい、何んの尾もひかずにそのまま消えていった。 「寄ったらうつわよ!」  闇《やみ》に蠢《うごめ》く、男の何かの気配を感じたのか、 「女は、靴下どめにハジキをかくせるのよ。知っていて?」  荒々しい吐息がいつまでも聞こえていた。 「やっぱり、あなたはやっていたのね。わたしには、よそへかくしたなんて、嘘《うそ》をついて……でも、今朝の新聞を見るまでは、わたしもほんとにしていたわ。まさか、まさかと思いながら、そこは惚《ほ》れたものの弱味さ」 「しかたがなかった……なかったのだ。あいつは獣のような男だし、何んの遠慮もなし、いつ何ん時、刑事がふみこむかと思うと、おたがいに身の破滅だと思っていたし、それにあの晩、酔っぱらって、おれの頬《ほお》げたをなぐりつけやがったんで……」 「やはり、わが身はかわいいからね。でも、そこまでは、わたしも先を読みきれなかった。あの人が、お前さんの旧悪を知っている。それをばらしたら、お前さんも五年や六年は刑務所行きだというから、悪党は悪党同士で、少しは仁義《じんぎ》も知っているかと思ったら、畜生!」  女はまるで牙音《きばおと》のような響きをたてて、歯を噛《か》みならしながら、 「この解決《おとしまえ》はどうしてくれる?」 「何んだって?」 「亭主にもう一度、わずかでも娑婆《しやば》の空気を吸わせたいばっかりに、刑務所やぶりの片棒までかついだわたしが、その亭主を殺されてここに埋められて、そのまま泣き寝いりに出来るかい。また、お前さんだって、その墓掘りに一役買わせたあの野郎を、うちの亭主のしわざと見せて撃ち殺した——二人まで殺せば間違いなく死刑だが……」 「畜生!」  青白い火花が闇《やみ》に閃《ひらめ》いた。にぶい呻《うめ》き声と同時に、二つの肉塊がぶつかりあう音、かすかな女の悲鳴が、一瞬この地下室に湧《わ》き上がった。 「二人とも、ピストルを捨てて手をあげろ」  部屋の入口から江藤警部がよびかけ、それに応ずるように、青白い懐中電灯の光が数本、床の上に倒れて、はげしく争いあっている男女二人の顔を、手を、体を眼まぐるしく浮かびあがらせた。  一瞬後には、部屋の中にとびこんでいった数人の刑事たちが、二人の体に襲いかかり、左右にひきはなして壁におしつけた。  右側の男——野呂元太郎の醜《みにく》く歪《ゆが》んだ顔を見つめて、警部は冷たい非情な調子で、 「君、今度は左の腕を怪我《けが》したのかね。今度は芝居じゃないんだな。この間は、君の大芝居にまんまとだまされてしまったが……悪さかんなれば天に勝つとはよくいったものだ」 「畜生」 「君はいったい、脱獄囚の田宮力三にころがりこまれて、かくまわなければならないような、どんな弱味があったんだ。刑務所へ何年か行ってくればすむような、そのぐらいの罪だろうに、人間というやつは、小さな罪をかくそうとして、だんだん深みへ落ちて行くものだ。田宮を殺して、脱獄した死刑囚が、まだどこかにかくれているように見せかける。そのために、事情を知って手伝った、むかしの仲間の浦野重吉まで撃ち殺して、田宮がやったと思わせる。田宮をかくまっていた時のシガレット・ケースを使ったのは思いつきだった。あれがなければ、あるいは——とも考えたのが、偽物《にせもの》の田宮が出て来たのでね……僕もすっかりこんがらかってしまってね。これで、こっちの女まで殺して、犯行をごまかせたら、そっちには思うつぼだったろうが、そうは行くまい。脱獄した死刑囚が生きてさえいたら、ここまで捕まらなかったはずはないのに、それに気がつかなかった僕は……」 「よほどの阿呆《あほう》だ」  ひかれ者の小唄《こうた》のような、罵倒《ばとう》の一語をあびせるのに、警部は顔色もかえずに、 「そして、貴様はよほどの悪魔だ」  それから警部は、左の壁におしつけられ、ふしぎな微笑をうかべて立っている、牝豹《めひよう》のような女、田宮君枝にむかって、いくらか声をやわらげて、 「君、さっきは電話をありがとう。あのおかげで、僕も君が亭主の生死について疑問を持っていることがわかったんだ。恐らく、自分が殺されるかも知れないと思いながら、亭主の預け先へとね——二人、べつべつにはなれて身をかくすという思いつきは、決してわるくはなかったが、ただ預かり先が悪かったな。田宮が殺されるかも知れない——と気がついて、初めて僕もはっとした。ではいつ、第一の事件の前、それとも後で? もちろん前だ、たとえ、どんな変装の名人でも、顔の通った脱獄囚が、あれだけの包囲網を破って逃げられるわけがない。では犯人は……いうまでもない。僕はあれからずっと、この男の身辺を見はらせておいた……もし、君が殺されるようなことがあっても、犯人の正体を知らせるような手がかりは、何かのこしておいてくれるとは思ったが、僕だって、何も無用の人殺しは見たくもない」  警部はさらに言葉の調子をやわらげていった。 「君も悪魔だ。だが、悪魔にも貞女はある」  火の雨ぞ降る  時すでに遅し  春雨じゃ濡《ぬ》れて行こうなどという情緒は、もう遠いむかしの語り草になってしまった。  春夏秋冬、それぞれの趣きを持った雨の姿に、詩情を催すような余裕は、世界のあらゆる人々の心から消えてしまった。  雨は大気中の水滴が凝《ぎよう》集《しゆう》して落ちて来るものだという物理的原理に違いはないが、いまではそれも火の雨である。十何年にわたる原爆、水爆実験によって大気中に堆積《たいせき》されたストロンチウム90が、雨とともに地上に降りそそぎ、この実験を始め出した人々の予想もしなかった危険を世界にまき散らしたのである。  このごろの雨は、体をちょっと濡らしただけでもすぐに水ぶくれのような火傷《やけど》を生じさせた。一時的には、手あてのしようもあるのだが、ちょっと応急処置をあやまっただけでも、その火傷はすぐ全身にひろがって、髪もぬけ、視力もなくなり、苦しみながら死んで行く。  さすがに、事態の悪化を悟った米英ソ三国も、原水爆実験の中止を決定したが、時はすでに遅く、人類破滅の危機を回避することは不可能と思われた。  この奇怪な物語は、全人類が絶望と悲観のどん底に呻吟《しんぎん》していた一九六——年の東京に始まる。   アダムとイヴ 「また、雨か……」  ガラス窓の外に降りしきる火の雨を見つめて、東大教授、藤代三男博士は大きな溜息《ためいき》をついた。若くして、理学博士と工学博士と二つの学位を持ち、ロケットの研究にかけては世界的な権威だが、この雨の恐怖には勝てなかった。  学問的な基礎を持っていればいるほど、このごろの人間は絶望的になっている。自分の生命もあと何年いや、何日続くかわからないことだし、それにもまして、人類の将来には何の望みも持てない……彼が研究を続けているのも、ほとんど今までの惰性から、これが将来どういう役にたつかという予想など、このごろの彼は考えたこともなかった。  ベルが鳴った……三男は、はっと眼をあげた。  夜、ことにこうした雨の中を、酔狂に外出して、人の家を訪ねて来るような相手があるとは思ってもいなかったのだ。  でも、その音は決して彼の錯覚ではなかった。叫ぶようなベルは絶間もなく続いた。 「どなたです?」  しかたなく、玄関へ立って行って、たずねると、 「三男さん、わたしよ。開けてちょうだい」  聞きおぼえのある女の声が鋭くひびいた。 「滋子《しげこ》さん?」  あわてて、扉《とびら》を開くと、そこには全身を鉛入りのプラスチックのコートに包んだ、恋人の滋子が立っている。 「どうして、今ごろ?」 「わたし、あなたにお話があるの。入ってもいいかしら?」 「どうぞ——これが見ず知らずの他人だって、雨の中に立たしてはおけませんよ」  彼は力なく笑った。  この間までは、母親と妹と三人暮らしだったのだが母親は昨年の冬、原因不明の病気で死に、妹も今年の春、放射能の影響と思われる病気で倒れて、この家には、もう彼だけしか残っていない。  とにかく、滋子を応接室へ案内しておいて、彼は自分で紅茶をわかしてもどって来た。 「まあ、お茶でもどうぞ——この水は、イオン吸着樹脂で、ストロンチウム90を除いた後の水だから放射能の方は大丈夫ですよ」  このごろでは、こうしたあいさつも普通のことになっている。こんな特殊な処理をしないかぎり、どういう食物も、口にすることはできないのだ。  滋子は茶碗《ちやわん》に手もふれず、恐ろしそうな眼で三男を見あげた。 「三男さん、今夜、わたしがここへきたわけがお分かり?」  この美しい娘の顔にも、今夜は暗い影がある。その眼は火の雨にぬれたように怪しく光っているが、そこにも秘密の影があった。 「分かりませんね。でも、こっちもびっくりしましたよ。何だってまた、こんな雨の中を命がけで……」 「命なんか、ちっともおしいとは思わないわ。どうせ、わたしたちは遅かれ早かれ、放射能のおかげで死ぬんでしょう」  といわれて、三男も溜息《ためいき》をついた。  たしかに滋子のいう通り、奇跡というものが起こらなければ、人類全体の死滅は時間の問題なのだ。  牛や馬や、そうした家畜も次々と放射能の被害で倒れるようになったし、米や麦や、そうした植物質の食物にも、死のストロンチウム90は多量に含まれているだろう。政府も科学者たちも、敢《あえ》てその数字は公表しようとしないが、それもこれ以上の恐怖を防止するための政治的処置であることは分かっている。  人間が、そういう食物を一切口にしないで生きて行く方法を考え出さないかぎり、いずれは、死の放射能も体内に蓄積され、内部から肉体を蝕《むしば》み、焼きつくして来るだろう。  理窟《りくつ》では十分そのことを知りぬきながら、それでも飲料水だけは、イオン交換樹脂などで、必死に消毒しているのも、考えて見れば、ただの気休めのようなもの、むかしの言葉でいえば、頭かくして尻《しり》かくさずというようなまねなのかも知れなかった。 「それでも、むかしの詩人はいいました。たとえ、地球の滅亡が明日とわかっても、自分は林檎《りんご》の樹を植えようと、今こそ人間の一人一人は、そういう考えを持つべきじゃありませんかね、たしかに一日一日と、未来は暗くなって行く。ただ、人間の一人一人が、希望を失わなかったら……」  もちろん、滋子をなだめすかそうとするよりも、自分自身にいい聞かせようとする言葉だったが、滋子はろくに、その話を聞いてもいないようだった。ただ、恐ろしそうに身をふるわせ、 「そんなお説教なんかどうでもいいわ——わたしは今日、家から逃げて来たのよ。お父さんが——お父さんの気が狂ってしまって、一家心中をするとさわぎ出したのよ、みんなでおさえつけて、やっと、それだけは思い止《とど》まらせたんだけれど、それですっかり思いつめて……」  と、かすれた声でいい出した。  三男はふたたび溜息《ためいき》をついた。たしかに最近、わけの分からぬ精神病者は激増している。 「原因不明の自殺」 「原因不明の犯罪」 「原因不明の一家心中」  などという記事は、毎日のように、新聞紙上をにぎわせているが、必ずしも、その原因が分からないわけではない。自分の、そして人類の未来にすっかり望みをたって、暗黒の虚無のどん底へたたきこまれた人々にとっては、手をこまねいて滅亡を待つよりも、自分で自分の命を絶った方が、はるかに手っとり早く思われるのだろう。もし、罪を犯したとしたところで、その心理には同情の余地もないではない。生き続けようとしてもだえぬく生命の力が、のがれられない運命に反抗して、凶悪な爆発を始めたとしても、一歩その心の中に入って考えれば、それは同情出来ないこともないのだ。  それにまた、三男が友人の医学部の助教授から聞いた話では、微量のストロンチウム90が体内に吸収された場合に、人間は精神に異常を来し、精神病に似た発作を起こすこともあるということだった。  もちろん、このような事態となって来れば、それはどうでもよいようなことだが、滋子の父も、もしかしたら、そういう症状を起こしたのではないかと思うと、彼は一層恐怖に襲われ、冷えた背筋も一層冷たく凍りついて行くような気がした。 「それはいけない……とにかく、僕が送って行こう。お父さんに、万一のことがあっては、いけないから……」  と立ち上がりかけた三男を恨めしそうに見つめて、 「何をするの? あなたには、まだわたしの気持がおわかりにならないの?」 「…………」 「もう、わたしたちの命は長くないのよ、一日一日がこの上もなく貴重なのよ。将来というものがない以上、人間には現在の瞬間しか、尊いものがないはずだわ。それなのに、あなたは人の気持も知らないで……お母さんと妹さんの一周忌がすぎたらなんて、天下泰平なことばっかしいって……もう、待てない。もう。わたし、一分も一秒も待てないわ!」  滋子は、子供のように、声をあげて大きく泣きくずれた。  大きくふるえる襟足《えりあし》が、食べてしまいたくなるようにかわいかった。  三男もその瞬間は、完全にわれを忘れてしまった。  科学のことも、自分の専門のロケットも、地球をおおう火の雨のこともすっかり忘れてしまって、ただ一人のアダムとなってしまった。 「行こう。二人で、夢のロケットに乗って、放射能のない、火の雨の降ることのない、星の世界へ……」   百年戦争  官能の焔《ほのお》に全身全霊を燃やしつくせば、その間だけは少なくとも死の恐怖からは逃れていられる。  情死を企てようとする男女は、必ずその決行の直前に、残った生の美酒を最後の一滴までもあまさず飲みほそうとするらしいが、それもまた、こういう心理から生まれて来る必然的な結果なのだろう。  そういう思いを藤代三男は、心の奥底から味わいつくした。  今まで、学問、研究と、眼に見えぬ悪霊に追われるような生活を続け、三十二になる今日まで、女というものも知らずに過ごして来たことが、この上もなく愚かな行為だったと思われた。失われた過去の一日一日が、今となってはこの上もなく惜しかった……。  それから五日目のことである。  大学から家へ帰って来て、三男は愕然《がくぜん》としてしまった。  もちろん、正式に結婚式をあげたわけではないが地上の人類の運命さえ、明日も知れない末世では、そういう社会的拘束や、道徳上の束縛などはどうでもよいことだった。  この四日は、彼が家へ帰って来ると同時に、焔《ほのお》のような接吻《せつぷん》をあびせ、 「よかったわ、よかったわ、これで一日、もう一日——わたしたちはいっしょに暮らせるのね」  とささやいて来るのに、その彼女はどこに行ったのだ?  天気がよいので、買物にでも出かけたか、それとも実家の方に事情がわかって、つれもどされたのかと思いながら、彼はしばらく待ちつづけた。  だが置手紙もなければ、夜になっても帰って来るような気配もない。  居たたまれない気持で、髪をかきむしりながら、家中を右往左往しているうちに、玄関の方でベルが鳴った。  喜びに飛び立つような思いで出て見ると、相手は見知らぬ男だった。背広姿だが眼は鋭く、一癖《ひとくせ》も二癖《ふたくせ》もありげに見えたが、 「警視庁捜査一課警部 土肥《どひ》正之助」  と印刷した名刺をさし出し、 「藤代先生でいらっしゃいますね。恐れ入りますが警視庁まで、ごいっしょにいらっしゃってはいただけませんか?」  と有無をいわさぬ調子でいった。 「警視庁へ? いったいどんな御用です?」 「これは申しあげ難《にく》いのですが、先生の奥さんが、突然、逆上して人を殺し、逮捕されておりますので原因不明——というよりも、例のストロンチウム90の作用で、精神に異常を来したものではないかと思われますが」  相手の言葉にも態度にも、気の毒でこっちの顔さえ正視出来ないというような色が、はっきりにじみ出ている。理窟《りくつ》では、あり得ることとうなずけても、感情ではこらえきれなかった。眼の前の大地が地ひびきたてて崩壊《ほうかい》し、自分の身を呑《の》みつくそうとするような幻想を必死におさえつけながら、 「よくわかりました……こういう時節のことですから、そういうことがあるのではないかと思って心配していたのですが……お手数をおかけしてすみません。それではおともいたしましょう」  と戸じまりをして外に出た。  大型の車の中には、やはり人相の悪い男が乗っていたが、刑事か何かだろうと思って、三男も最初は気にもとめなかった。  しかし、車は、警視庁とは全然違った方角をさして走っているようだった。  もうこの頃《ごろ》ではネオンもつかず、夜ともなれば、かつては不夜城といわれた大東京の街々も、文字通り灯の消えたような淋《さび》しさだから、はっきりとはいえないが、たしかに都心に向かうのとは、全然違った方向へ疾走していることが分かったものだから、三男もすっかり驚いて、 「いったい、警視庁へ行くのではないのですか? この車は……」  とたずねたが、相手はおしつぶすように、 「違います。あれは、先生をお迎えするための口実でしたよ」  とうそぶいた。 「何だって! 君たちは、いったい何者だ! 警部の偽《にせ》名刺などを使って、ぼくを誘拐《ゆうかい》するつもりか。いったいどういう目的で……」 「それはここではいえません。ただ、ある秘密の大目的のために、先生の御協力を願いたいのです。そう申しあげても、御信用はいただけないでしょうしまた、秘密のもれる恐れもないではありませんからこうして非常手段に訴えなければならなくなったのです」  言葉は至って丁寧《ていねい》だったが、その語感には有無をいわせぬ力がある。また、こうして屈強な男に、両側からおさえつけられては、腕力の点では至って自信のない彼には、抵抗しようという気も起こらなかった。  何といっても、人類自体が、破滅への断崖《だんがい》の上によろめいているようなこの頃では、人間一人の命など、葦《あし》よりも脆《もろ》いかよわい存在なのだ。べつに、自分が死んでも、誰《だれ》一人、それによって利益を得る人間はいないはずだが、この相手にしたところで、放射能の影響で、気が変になっていないとはいえないのだし、もうこうなれば、すべてを天にまかせて成り行きに従うほかには道もなかった。  自動車は間もなく、一軒の宏壮な洋館の前に止まった。両脇《わき》から、腕をかかえられるようにして、三男は二階の階段を上った。  死刑台への行進に似た力ない歩みだったが、二階の部屋は、死の宣告や処刑などをいい渡される場としては、ふさわしくもないような豪勢きわまるものだった。 「藤代先生をおつれしました」  といわれて、正面のデスクに坐《すわ》っていた白髪の老人は立ち上がった。  よほどの年には違いないが、その眼には、壮者もしのぐ元気がある。必死に何かを思いつめているような眼光を、三男の全身にあびせながら、 「藤代先生でいらっしゃいますね。小島慶蔵です。大変奇妙な招待で恐れいりますが、私の名前は出したくなかったものですから、まあ、おかけ下さい」  と、デスクの前の椅子《いす》を指した。 「小島慶蔵……」  三男も思わず固唾《かたず》をのんだ。小島慶蔵といえばその経営する事業も多種多岐にわたり、戦後二十数年にわたって築きあげた財力も、天文学的数字に達するといわれている大人物なのだ。もっとも人類の滅亡を眼前にひかえては、そのような富も事業も、塵埃《じんあい》の価値もないことなのだが、それでも、その全身には、いままで不可能という文字を知らなかった人物だけの持つ不思議な闘志がみなぎっている。 「そうです。何かめし上がりますか。ウイスキーでも葡萄《ぶどう》酒でもお一ついかがです。放射能の害はありません」 「御馳走《ごちそう》になるのは大変ありがとうございますが、まず、御用件をうかがいたいと思います」  三男の方も、いくらか切り口上になっていたが、小島慶蔵は、やわらかな微笑を浮かべながら、 「藤代さん、あなたはすぐれた科学者だ。ですから私も歯に衣《きぬ》着せずに申しますが、あなたは人類の滅亡を、このまま黙って見送れますか?」 「もちろん、それを待っているわけではありませんよ。ただ、ここまで悪化した事態を、私一人の個人的な力で左右は出来ますまい。恐らく、世界の人類は、誰《だれ》でも同じ心境でしょうが、俎《まないた》の上にのせられた鯉《こい》のように、最後の運命を待つしか、しかたのないことですね」 「ところが、私はそうあきらめたくはないのです。小島慶蔵の辞書には不可能という文字はなかった。これからもないつもりです」 「せっかくのお話ですけれど、どんな人間も自然界を支配している物理的法則には勝てませんからね。一旦《いつたん》、西に沈みかけた太陽を、もう一度東へ呼びもどすことよりも、それは難しい努力でしょう」 「西に沈んだ太陽を呼びもどそうとするから不可能となるのです。一晩眠って眼をさませば、太陽はやっぱり東に上って来ます」 「とおっしゃると?」 「いかにストロンチウム90の放射能が強烈でも、物理学上の法則によって、何十年かの後には無害となるはずでしょう。要は、人類というものの命を、どのようにして、その時まで生き永らえさせるか——問題は、その一点に絞られて来るのではありますまいか。もちろん、私もあなたも、そういう時代まで生きのびてはおられますまいが、せめて自分の子孫でも、そうして生きのびさせたいとはお考えになりませんかな?」  最初は狂人の譫言《たわごと》かとも思われたような言葉だったが、どうも話の全体には、何か理詰めの筋道が一本通っているようだった。三男も大きく膝《ひざ》を進めて、 「うかがいましょう。この話を」 「私の申し上げたいことは、要するに、無理をしないという一言につきるのですよ。ストロンチウム90の放射能を含んだ死の雨は、たしかに避け得られないでしょう。ただ、その放射能から隔離された場所に、人類が今後百年生き長らえれば」 「その場所は?」 「まだ、はっきり場所は申せませんが、日本で最も雨量の少ないある山の地下に作った、人工の大洞窟《どうくつ》です。私はこのことを予想し、その工事を完成しました。食料も数百人の人間が百年暮らしてあまりあるだけのものは貯蔵してあるし、太陽発電機もそなえつけてありますから、照明なり内部の動力にも十分のエネルギーは供給出来ます。私の現在の計画では、次の時代を生むために最もふさわしいと思われる男女百人ずつに、この聖なる使命を託したい。その人選は、秘密のうちに、私の手もとで行いましたが、その中には先生のお名前も含まれていた。それで、こうしておいで願ったのですが」 「なるほど……」 「まあ、技術的には、現代の科学で出来るだけのことをやって見たつもりです。もちろん、百年にわたる長期戦のことですから、途中でもいろいろと不測の事態は起こるでしょうが、そこまでは私も何ともいえない。ただ、昔流のいい方でいうならば、人類の興廃この一戦にありというような事態ですから、各員の奮励努力を待つだけです」 「なるほど……」  三男も思わず固唾《かたず》をのんだ。たしかに、雄大無比な構想だが、小島財閥の全能力を傾ければ、それは必ずしも不可能とはいいきれない事業だったろう。そして、この老いたる事業家が自分一身のことを考えず、大きく人類愛に眼ざめたその心境は理解も出来た。 「なるほど、お話はよく分かりました。それでは誰《だれ》でも自分の好きな女をつれて、その籠城《ろうじよう》部隊に加わればよろしいというわけですな」 「それはいけません」  相手の声はきびしかった。 「先生の御参加は希望します。ただ、この隊員は独身者にかぎられる——もちろん、人類の生存ということを第一の目的とする大事業ですから、男女同数は確保します。ただ、その結婚の相手だけは、こちらに全権を委任していただきたいのです」 「そうですか……」  彼も思わず溜息《ためいき》をついた。なるほど、純理としてはそうだろう。これだけの大事業を企てるためには、そこまで非情に、そこまで科学的に、事を運ばなければならないはずだが、滋子の激情を思い浮かべただけでも、彼の心はいたんだ。わずか数日の妻ではあったが、それをみすみすふりすてて、自分だけ命を永らえようとするのは、何となくしのびないような気がしてならなかった。 「いかがです。御参加願えましょうな」 「十分考慮いたしまして、御返事いたします」  この返事を聞いて、小島慶蔵の顔には、明かに失望の色が浮かんだ。はきだすように、渋い口調で、 「あなたはよくよく命に未練がないと見えますな。もちろん、この計画も、万全の策だとはいいきれないけれども、私の考えたところでは、命の助かる唯一《ゆいいつ》の方法だと思えるし今まで私の交渉したお方で、即答しなかったお方は一人もありませんでしたよ」 「それはよく分かっています。ただ……」 「何か未練があるのですな。この世に、恐らく誰《だれ》か女のお方に」  さすがは多年、実業畑で鍛《きた》え上げて来た人物だけに、人の心の動きを見やぶることは鋭いらしく、いうにいわれぬ、彼の表情のかすかな動きから、その心の中の考えを、一瞬に見ぬいてしまったようだった。 「そうです。お恥ずかしい話ですが」 「はははは、無理もないことですな。この私にもおぼえは人一倍あることですよ」  小島慶蔵はその瞬間、今までのきびしい表情を忘れたように、人の好さそうな笑いを浮かべたが、それも一瞬、たちまちもとの厳しい秋霜を思わせる表情に返って、 「藤代さん、あなたはまだお若い。私などのような年寄りに比べたら、それこそ子供も同然だから、恋の愛のという感情に溺《おぼ》れなさるのも無理はない。でもそういうような感情は、私などにいわせれば、はしかも同様のものなのですよ。かかっている時は高熱を出して七転八倒するけれども、治って見れば何ということもない。そんな病気があったかと、ろくに思い出せもしないくらいで、まあ、色欲というものを適当に満足させていれば、そういう相手のことなどは、間もなく忘れてしまいますとも、絶対に大丈夫——この私が保証しますよ」  と、自信をこめていいきった。 「でも……」  最後の最後の瞬間まで、彼はためらいつづけていた。小島慶蔵も、これ以上、一人の人間を相手にしてはいられないと思ったのか、静かに椅子《いす》から立ち上がって、 「それでは三日したら、もう一度、お迎えをさしあげましょう。どういう人間が使いに行くか知れませんけれど、合言葉は�薔薇《ばら》の花は紅《あか》いか�というのです。あなたの答えは、イエスだったら�紅くはない。黄色だ�といって下さればよいのです」  若い時には文学青年で、芝居の脚本なども書いたことがあるといわれるだけに、この老事業家の考えには、どことなくロマンチックな匂《にお》いがした。たとえば、この合言葉の文句などがその一例だが、人類滅亡というような苛酷《かこく》な運命に敢然挑《いど》みかかろうとする、暴挙ともいいたいような大事業を彼に思いつかせたのも、その心に残る、この若さだったかも知れなかった。  藤代三男が、そう感じたのもわずか一瞬、慶蔵はまた底知れぬ冷たさを言外にこめて、 「藤代さん、これはいうまでもないことですが、この秘密は守って下さるでしょうな。いま、人間は誰《だれ》しも絶望のどん底にあえいでいる。たとえどのような方法でも、生き永らえるといわれれば、それこそ一人残らず、救いの綱に飛びついて来るでしょう。もしも、自分は助かる見込もないのに、ほかの誰かがそういう機会に恵まれたとわかれば、命がけでそれを妨害しようとするでしょう。  残念ながら、人間の心の奥底には、そういう醜《みにく》い嫉妬《しつと》の情が、大きな脈をなしているのです。七十年を越えた私の生涯でも、人間性の醜さが、これほど激しく表面にあらわれた時代は知りません。もしもあなたが第三者に、この秘密の片鱗《へんりん》でも洩《も》らされたら、その時かぎり、あなたはこの生き永らえる唯一《ゆいいつ》の機会を逃すことはいうまでもない。また、たとえ私が誰かに、あなたとあったおぼえがあるかと聞かれても、それは藤代氏の神経がストロンチウム90の放射能におかされて、ありもしない悪夢を見たのだろうと、否定するほかはないのですよ」   消えぬ愛の灯  そのまま、自動車で送られて、藤代三男は家へ帰って来た。  深夜の路には、どこからともなく銃声が聞こえて来た。かと思えば、この世の最後の瞬間を、狂おしく楽しみつくそうとしているのか、窓を開け、頬《ほお》をよせて踊り狂っている男女の姿も見え、道の上には雨の犠牲か、倒れたまま、とりかたづける人もなくそのままになっている死体もいくつかヘッドライトの光に浮かび上がった。 「今夜の十二時からは、送電も中止になるようですね、東京も、日本も、いよいよ断末魔の形相を呈して来ました」  車の中で、土肥警部は恐ろしそうにぽつりといった。最初は偽《にせ》警部かと思っていたが、彼はやっぱり本物だったのだ。彼に職場を放棄させたのは、生命に対する動物的な執着か、それとも人類の将来に対するそれ以上の義務感か、それは三男にも分からなかったが……家の近くで、車を止めてもらったとき、この警部は強く最後の忠告を与えた。 「もう、申し上げるまでもありますまいが、三日というのは最大限の譲歩です。その日の夕方には、最後の部隊が基地へ出発することになっている。それが到着すると同時に、基地と外界とは交通が遮断《しやだん》されてしまって、百年の籠《ろう》城《じよう》生活に入るのです。それ以上の猶予《ゆうよ》は出来ませんが、そこのところはおわかりでしょうな」  三男は黙ってうなずいた。しばらく家の前で立ち止まって、走り去る車の影をじっと見送っているうちに、あたりの電灯は、一時にぱっとかき消すように消えてしまった。  明日から、もう電灯もつくことはない。電車も動くことはない……人類の文明というものには、このようにして、次々と最後の弔《ちよう》鐘《しよう》が鳴りひびいているのだった。  だが、彼が眼をあげると、自分の家の窓にはちらりと灯影《ほかげ》が動いていた。  黄色い蝋燭《ろうそく》の光だった。滋子が——滋子が帰って来たのに違いない。  もうベルをおしたところで、音は出すはずがないから、彼は大声で、その名を呼んだ。  玄関の扉《とびら》は音もなく開き、深い暗闇《くらやみ》の中からは、なつかしい女の声が伝わって来た。 「お帰んなさい。どうなすったのかと思って、わたくし、とても心配していたわ」  という声も、何となく力がなくなったようだった。蝋燭の炎に照らし出されたその顔には、ふしぎな陰影が刻みこまれて、わずか一日に、何年かの老いを経験したように見えたのだった。 「うん、今日は、東京の夜景もこれで見おさめだと思って、今まであちらこちらと歩いて来た」  たとえ、あと三日の結婚だと思っても、いま真相をうちあけて、滋子の心をこれ以上苦しめる気にはなれなかった。 「まあ、そうですの? でもよかったわ。お帰りになって……もし、あなたに万一のことがあったらどうしようかと、わたしも、とても心配していたの」  最初こそ、ちょっと奇妙な動揺も見せたが、滋子の態度は、たちまちいつもの通りに返ってしまった。  部屋へ入ると、ぷっと蝋燭《ろうそく》の灯を吹き消し、 「もう明日からは大学へもいらっしゃらなくてもいいのね、どんなに大事なお仕事でも、電気が来なくってはどうしようもないんでしょう? もう後は何日生きられるか知らないけれど、その間だけでもこうして暮らせれば、わたしの方は、何も思いのこすことはないわ……あなたと、こうしていっしょに死んで行けさえすれば、わたしはそれで本望なのよ」 「うん……」  女の情熱というものは、ある場合には、火よりも強く烈《はげ》しいものだと、理窟《りくつ》の上で知ってはいたが、それを身にしみて体験したのは、三男も今度が初めてだった。やわらかな、腕の中に溶けて行きそうな滋子の体を強く抱きしめながら、彼は大きく溜息《ためいき》をついた。  しかし、最初の躊躇《ためらい》が過ぎ去ると、その後は嵐《あらし》のような激情が覆《おお》いかかって来た。  しびれるような愛欲の虜《とりこ》となって、二人はしばらく時のたつのを忘れていた。 「どうする! お前は、いま何かの奇跡がふいと起こったら……おれを捨てれば、命は助かる。放射能にもやられずに生き永らえることが出来ると、神様のおつげがあったら?」  夢幻の間に、また現実が返って来た。愛撫《あいぶ》の手を休めて、三男はふっとたずねた。 「いや、いや、いやよ。そんなことをいう人間がいたなら、そいつは悪魔——あなたのいない人生なんか、わたしには想像もできないわ」  滋子の声には迷いもなかった。すべてを割り切りただ一筋の情熱に、すべてを賭《か》けて悔いもないような女の捨て身の態度には三男もちょっとたじろいたが、 「ぼくは今まで、女の心というものは、想像してみたことはなかったが、ほんとうにそんなものだろうか? お前だって、もしぼくが死んでも、ほかの男と結婚し、子供でもできたら、ぼくのことなんか、すっかり忘れてしまうんじゃないだろうか? もっとも、こんな時代ではなく、平和に無事に、生き永らえることができると仮定してだが」 「それは、そういう方もないではないでしょう。男にしたって、女にしたって、千人いても、万人いてもその心はそれぞれ違うんですもの。ほかの方のことまでは、何ともいえないけれど——わたしはべつよ。わたしは体が腐っても、あなたのおそばで死んで行きたい。百年たって、もし誰《だれ》か、人間がまたこの地上にもどって来るようなことがあったら、この家の中に、二つの骸骨《がいこつ》が、おたがいに抱きあって残っているのを見つけるでしょう。もっとも、それまで骨が残っているかどうかは、わたしにも分からないけれど……たとえ、いま降りつづけている火の雨が、あらゆるものを焼きつくすことが出来たとしても、焼ききれないものがたった一つあるのよ。愛——愛だわ。愛というものは、放射能をもはね返すのよ」  三男は返す言葉もなかった。たしかに小島慶蔵の話には理窟《りくつ》はあった。しかし、いまの滋子の言葉にも、それ以上、胸に迫る強い真理が含まれている。  そのどちらに従うかも、まだきめきれず、彼はただ激しい愛欲の命ずるままに身をまかせていた。   地獄と極楽  その翌日は雨だった。  死の灰を溶かした激しい雨が、地軸を流すように東京中に降りつづけていた。  もちろん、新聞も郵便も、すべての連絡は遮断《しやだん》されている。送電が停《と》まっているくらいだから、ラジオも聞けるわけはないが、ただ、放送局だけは、最後の自家発電装置を動かして、必死の放送を続けているらしい。ポータブルのトランジスターラジオは、かぼそい声で、次々に人類断末魔の瞬間の息づまるようなニュースを伝えて来た。 「ロンドン発AP特電によりますと、バッキンガム宮殿の前には、全市民が集結し、最後の祈りをささげております。さすがは、大国民の所以《ゆえん》を示して、この最後の審判を、従容《しようよう》と迎えようとしているようであります……」 「ニューヨーク発、UP至急報によりますと、ニューヨーク全市は、いまや大混乱におちいりました。エンパイヤ・ステートビルからの投身自殺はあともたたず、タイムズ・スクェアでは、紙幣を燃やして哄笑《こうしよう》しているような狂人もあらわれておる様子です……」 「パリー発、ロイター至急報によりますと、一か八かの運命を賭《か》けて、宇宙旅行に出発しようとしていたルブラン博士のロケットは、群集に襲われて破壊されました。パリー全市は、いま破壊、暴行、大狂乱の渦中《かちゆう》にあります。恐らく、これがパリーからの最後の通信となりましょう……」  この土壇場《どたんば》まで追いつめられて、まだ記者魂を捨てていない人々が、次々に、世界の各地から送り続けて来るニュースは、鬼気迫るとか、殺気立つとかそういうありふれた言葉では表現も出来なかった。 「栗橋発、至急報によりますと、利根川の堤防はただいま決潰《けつかい》いたしました。修理する者もありません、焔《ほのお》のような濁流《だくりゆう》は、間もなく関東平野一帯をのみつくしてしまうことでしょう……」  すべては時間の問題だった。すべての文明、すべての生命は、いまこの地球上から消え去ろうとしている。いまさらいってもかいないことだが、この種子を蒔《ま》いたのは誰《だれ》なのだ。  そう思いながら、三男は眼をとじた。 「あなた、火事よ!」  二階から滋子がかけおりて来た。五、六軒先の家が雨の中に激しく燃え上がっている。失火か、それとも放火か知れないが、かけつける者は一人もない。 「きゃーっ」  突然、鋭い女の悲鳴が聞こえた。隣の家の二階の窓辺にあらわれた若い女が、いきなり自分の胸に抱いていた赤子を、窓から外へ、死の海へ投げこみ、そして自分もそのあとを追って屋根から飛びおりたのだ。 「気が狂ったのよ。お隣の奥さんは……」 「うん、地獄だ、この世の生き地獄だ」  激しい雨が火勢をそいで、火事は一軒を焼いただけでおさまったが、そのあとの黒い煙を見つめて、三男は暗然とつぶやいた。 「そうかしら? わたしはまだ、自分が地獄へ堕《お》ちたとは思わないわ」 「どうして」 「地獄も極楽も、結局は人間の心の中にあるんじゃないかしら? どんな恐ろしい目にあっても、その境遇に満足出来れば、そこが極楽じゃないかしら?」  滋子の眼は、底も知れない深さに澄み、何ともいえない幸福感にあふれていた。   運命の使者  雨はやんだ。しかし、三男はラジオのスイッチをひねる気にさえなれなかった。  その眼の前の光景だけでも、信じきれないほどの恐怖に満ちているのに、この世の涯《はて》に別の恐怖を求める必要がどこにあろう。  そして三日目、運命の使者は、ふたたびこの家を訪ねてきた。土肥警部とはべつの青年だったが、急いでいるのか名のりもせず、玄関先にたったまま、 「薔薇《ばら》の花は紅《あか》いか?」  と誘いの一言を投げかけた。  藤代三男は口ごもった。「紅くはない。黄色だ」という一言が、どうしても口から離れなかったのだ。 「あなた!」  廊下の端には、滋子が真青な顔をして立っていた。よろよろとよろめく体を壁にもたれながら、血を吐くような声で叫んだ。 「あなた! おっしゃって! 薔薇《ばら》の花は紅《あか》くはない。黄色だと!」  この謎《なぞ》の使者の口もとには、失望の色が浮かんだ。これもまた、血のにじむような悲痛な調子で、 「失礼します。この秘密をたとえ奥さんにでも、おもらしになるようなお方は、おとも出来ません」  とつぶやき、そのまま家を出て行った。 「待って! 待って! お待ちになって!」  呆然《ぼうぜん》とたたずむ三男をつきとばすようにして、滋子は外へかけ出して行った。間もなく、自動車のスタートする音が聞こえ、滋子はそのまま帰って来たがその眼は真赤に腫《は》れてしまっている。 「あなた——どうしてあの人と御一緒においでにならなかったの? 百年間の籠城《ろうじよう》に?」 「どうして、どうして、お前はそのことを知っていたのだ?」 「わたしも、わたしも、選ばれた女の一人だったのです。ただ、わたしはその場で、きっぱりおことわりして帰って来ましたの、あなたがおいでになるということは、知らなかったものだから……」  二人はしばらく無言でいた。三男にとっては、永遠に失われた生への希望だったが、彼の心の中にはふしぎに何の悔恨《かいこん》も起こらなかった。 「たしかに、人間というものは、誰《だれ》でも一度は死ぬんだし、その死に方がどうであろうと、大した違いもないだろうね。病気で床の上で死ぬのも、放射能の雨にうたれて死ぬのも、苦しさにはそれほど変わりはあるまいね」 「あなた、申しわけありません……わたしがあわてて、とんだ口出しをしたばっかしに」  滋子はわっと泣き崩れたが、三男はその体を抱きしめてやさしくいった。 「いいんだ、いいんだ。お前のような女を選んだということは、やっぱり小島さんも目が高かったよ。この計画は必ず成功するだろう。いつかは夜の闇《やみ》も終わって、また東の空に朝日が上って来ることもあるだろうね……」  外は沛然《はいぜん》と降りつづける火の雨だった。その中で今まで明るく燃えつづけていた藤代家の窓辺の蝋燭《ろうそく》の灯がふっと消えた。  食人金属   空飛ぶ円盤着陸す 「日本は狭い……狭すぎる……」  操縦|桿《かん》を両手にぐっと握りしめながら、自衛隊三等空佐井上敏夫はふと思った。  見上げる空は真昼でも星の輝く暗黒の成層圏、その底のあたりをこの新鋭戦闘機J二一七『雷電』は音速の三倍、三マッハの高速で飛びつづけている。  第二次大戦が終わってから二十五年、遅れに遅れていた日本の航空工業技術が初めて世界の水準を抜いて、昭和四十六年に試作を完了した純国産新型ジェット機の三度目の試験飛行だった。  富士山のちょうど上空あたりで、大きく旋回すると、このジェット機は南へ進路を変えた。 「ああ、二十五年前に、こんな飛行機が出来ていたらなあ」  またしても妙な感慨が心に浮かんだ。もちろん彼は、当時まだ物心もつかない赤ん坊だったから、当時の激しい航空戦の実戦を自ら経験したわけではない。  ただ、当時陸軍航空中佐で、防空戦闘機『飛燕《ひえん》』を駆って、このコースを逆に侵入して来たB二九と、何十度か凄惨《せいさん》な死闘をくり返した父の思い出話が、なぜか頭をかすめて来たのだろう。  石廊崎《いろうざき》の上空で、彼はまた左に大きく操縦|桿《かん》を倒したが、この時風防ガラスを通して、右の上空に見出《みいだ》した物体の姿には思わずあっと声をあげずにはおられなかった。 「空飛ぶ円盤!」  それはたしかに幻《まぼろし》でも錯覚でもなかった。昭和二十年代から、世界の各地で、たえず噂《うわさ》に上っていたこの怪物は、彼のとったコースとは正反対の方角を——ちょうどB二九日本空襲の経路をたどって、いまこの高空に姿をあらわしたのだ。  その背後には、ちょうど飛行機雲のように青白い光が長く尾をひいている。どのような燃料を使用しているのか知れないが、それは強力なジェット機関の吐き出す噴流のように見えた。 「雷電号より立川《たちかわ》基地へ」  彼はふたたび左へ急旋回しながら、ラジオのマイクロフォンに呼びかけた。 「ただいま石廊崎上空、高度約三万五千と思われる高空に、空飛ぶ円盤一機を発見、追跡してもよろしきや」 「立川基地より雷電号へ」  返事はすぐに、レシーバーから返って来た。何ともいえぬ恐怖に満ちた調子で、 「引き返せ、追跡無用」 「接近せずに跡を追う」  B二九を、この道に迎撃した父の感慨が心によみがえって来た。服務規定の違反に問われることは覚悟の前で、彼は機首をこの円盤の方へ向けた。 「立川基地より雷電号へ。緊急命令、引き返せ。予定のコースを立川へ。引き返せ! 引き返せ! 引き返せ!」 「問答無用!」  自分でも、どうしてこんな返事が飛び出したのか分からなかった。速度調整装置のレバーを足で蹴《け》りつづけて、彼は四マッハに近い全速力を出した。  だが、その距離は縮まらなかった。この円盤はどれだけの速度を持っているのだろう?  いまの人類科学では、このような高速ジェット機関が作れるわけはないが、やはりそれでは二十何年、各国で激しく論議されたように、地球人ならぬ宇宙人の搭乗《とうじよう》する遊星からの使者なのだろうか? これが彼等の地球侵略作戦の第一の尖兵《せんぺい》なのだろうか?  彼の頭にこんな考えがかすめた瞬間、円盤はびゅーんと高度を下げた。その後を追ってこの雷電号も、厚い雲海の中へ鋭い角度で機首をつっこんだ。 「あッ!」  ちょうど富士山の頂上をかすめて、円盤はまだ急降下して行く。雲を破って、突然あらわれたこの山腹に激突しそうになったのを、彼は一瞬の操舵《そうだ》でかわした。  もちろん、レーダーには写っていたのだが、鹿を追う猟師山を見ずと、古い諺《ことわざ》にもあったように、彼は雲の間に見えない円盤の跡を追うことに必死なあまり、山の存在さえ忘れていたのだ。  二千メートルの低空まで降下しても、まだ円盤は上昇の体制には移らなかった。いや、それどころか、ぐんぐんと速度を落とし、高度を落とし、樹海の上すれすれのところを飛び続け、御殿場《ごてんば》近くの裾野《すその》の上に着陸した。 「不時着かな?」  彼は思わず声をあげてつぶやいた。それならば、自分もそのそばに着陸して、円盤の細部を調べたかったが、いかに大胆不敵な彼でも、この高速機で飛行場でも何でもないところへ着陸するような無暴な自殺的行為は出来なかった。  これ以上の追跡はあきらめて、彼はふたたび機首をあげた。そしてさっきから、気が狂ったように警告をくり返している立川の司令塔へ、沈着な調子で報告した。 「空飛ぶ円盤は富士|山麓《さんろく》、滝ケ原付近に着陸、われはこれより基地へ帰還す……」  一時間後、この円盤の上空には、各新聞社の飛行機が乱舞を続けていた。  この通信を傍受した各新聞社は争って、飛行機を飛ばして、この円盤の撮影を企てたのだ。  もちろん、中にはどんな怪物がひそんでいるかはわからない。その出発地も火星か金星か、それとも太陽系外の全然未知の星なのか、それは全く予想も出来なかった。どのような人智《じんち》を超越した新兵器で攻撃を加えて来るかも知れないのに、この飛行機が一機一機と驚くべき低空飛行をくり返したのは、競争意識もさることながら、未知の物、人智を越えた存在に対する好奇心が、ただでも冒険意欲に溢《あふ》れた新聞記者魂を炎のように燃え上がらせたのだろう。  だが、円盤は沈黙していた。  その直径は百メートル近くはあるだろう。中央部だけは大きくふくれ上がっているが、その幾何学的に正確な形状といい、銀白色の金属的な光輝といい、決して自然の産物とは思われない。少なくとも人類と同等か、それ以上の科学技術を持っている生物が作り上げたものとしか考えられなかった。 「おい、あの近くには着陸出来ないか!」  自ら飛行服に身をかためて、社の飛行機に同乗して来た東洋新聞の社会部長、中村景樹は、加藤操縦士の肩をゆすぶって叫んだ。  操縦士の方は真青な顔をして、 「部長、命あっての物だねですぜ」 「分かっている。しかし千載一遇《せんざいいちぐう》のこういうチャンスを見のがすという手はないのだ。ヘリコプターでは間にあわない。この飛行機を場合によってはこわしてもいいということは、社を出る時に、ちゃんと社長の了解を得ている」  操縦士は円盤の上を二、三度旋回しながら考えこんでいた。むかしの科学小説や科学映画なら、もうこのあたりでどこかの入口が開き、宇宙服に身をかためた遊星人か、それとも人間ばなれした妖怪《ようかい》などがあらわれるころだが、そういう定石を裏切って、まだ円盤は沈黙していた。  部長の焦慮《しようりよ》は操縦士にもよくわかった。自分たちがここへ飛んで来るのと入れ違いに、東の方へ飛び帰ったのは、自衛隊所属の偵察機——きっと、ここに着陸したと報告のあった円盤を再確認に飛んで来たのだろう。もちろん、今ごろは兵員を乗せたヘリコプターが飛んで来る途中だろうし、それが到着すればこの辺一帯は立入り禁止地域となって、新聞記者も近づけなくなる。この円盤の内部に何がひそんでいるか——その歴史的なニュースを捕えるためには是が非でも、それ以前に現場に到着して既成事実を作っておかねばならないのだ。 「どうだ! 決心はつかないか!」 「飛行機をこわしてもいいのなら、胴体着陸をやりましょう」  部長の気魄《きはく》に気圧《けお》されたように操縦士は答えた。こういう非常の着陸には、脚《きやく》を出さずに胴体の下部で着陸するのが常識なのだ。機体はもちろん大破するが、人間の死傷はまず生じない。  着陸可能と思われる草原を見出すと、この飛行機は速度を落としてつっこんだ。  もちろん、こういう大胆な計画が、上空を飛びまわっている他社の飛行機にわかるわけはなかった。あわてたように高度を上げ、そして無電で報告を本社へ送りつづけた。 「円盤は殺人光線のような兵器を使用しているようである……東洋新聞社の飛行機は、その光線をあびて、機関に故障を生じ円盤付近の草原に不時着した。乗員の生死不明……」  だが、こういう騒ぎが起こっていることを知っているのか知らないのか、円盤はまだ、ぶきみな沈黙を守りつづけていた。   その後に残されたもの  中村部長は、何分かの後に意識をとりもどした。自分の命令には違いないし、バンドで強く体を座席に縛りつけていたといっても、やはり胴体着陸というはなれわざは、人間をしばらく失神させるほどの激しいショックなのだった。 「加藤君、坂本君」  部長は鼻血をぬぐいながら、そばの操縦士とカメラマンをゆり起こした。 「大丈夫か?」 「大丈夫です。ちょっと目まいがしていますけれど」  二人とも割合元気な声で答え、部長と前後して、大破した機体からはい出した。 「円盤はどこだ?」  最初は方角もわからなかった。だが、ぐるりとあたりを見まわすと、二百メートルほどむこうに、銀白色に輝く巨体を横たえている円盤の姿が眼にうつった。  横から見ると、中央の最もふくらんでいる部分の厚さは十メートルぐらいあるように思われる。坂本カメラマンは、早速スピグラで何枚かの写真を写しはじめた。 「大丈夫かな、近づいても。ウエルズの『宇宙戦争』では、あの真中の小さな穴から、蛸《たこ》のような足が出て来て『火星人歓迎』というプラカードを持って近づいて行った三人を、まず殺人光線で焼き殺すのだが」  坂本カメラマンは、いくらか臆《おく》病《びよう》風にとりつかれたのか、声をふるわせてつぶやいたが、部長は唇をひきしめて、 「前進!」  と一歩一歩円盤の方へ近づいていった。  その時、上空からは一台の大型ヘリコプターが近づいて来た。一眼でわかる自衛隊の輸送機だった。三人の飛行機が不時着したあたりをかすめて三人と円盤の中間に着陸するとその中からは十数名の完全武装した兵員が飛び出して来た。  その中の指揮官らしい一人が三人の方へ近づいて、 「東洋新聞のお方ですね?」 「そうです」 「死者、負傷者はありませんか?」 「飛行機はごらんの通りですが、人間の方は無事でした」 「それは不幸中の幸いでした。今もこっちへやって来る途中、おたくの飛行機が殺人光線のような怪電波にエンジンをやられて、円盤の近くに不時着したという報告を聞いたので心配していたのですが」  部長は敢《あえ》て真相を打ち明けようともしなかった。一瞬に、心の中でこの報告と真相を秤《はかり》にかけて、こういう誤説の方がニュースヴァリューが大きいと判断したからである。 「とにかく、これ以上円盤に近づいては危険です。後方へ下がって、手あてをうけて下さい」 「その必要はありません。取材の自由を妨害なさるのですか?」  これがむかしの軍隊なら、 「民間人はひっこんどれ!」  とでもどなり散らすところだろうが、さすがに多年民主主義の教育を受けて来た自衛隊では、そんな乱暴なせりふは出なかった。 「いや、私はあなた方のおためを思っていっているのですよ。これが、普通の事件ならばともかく、相手はまだ正体も知れない怪物ですし、私どもは一人のこらず、決死隊のつもりで来ているのです」 「あなた方が命令のために命をかけるのも、我々が取材のために命をかけるのも、その精神には何の変わりもありません」  この指揮官はちょっと黙った。その時、一人の兵が、間にかけこんで来て、 「隊長、円盤のまわりには、こういうものが無数に落ちています。これはいったい何でしょう」  と、鶏卵《けいらん》とちょうど同じような形と大きさを持つ白いものをさし出した。それをうけとった指揮官が、ちょっとよろめいたところを見ると、これは見かけの大きさに似あわず、相当の重さを持っているものに違いない。 「何ですかな? それは」  部長もあたりを見まわして、足もとに落ちていた一つを拾いその重量にびっくりした。表面は、海綿かスポンジゴムのような手ざわりのやわらかな物質におおわれているが、ずっしりと手ごたえのあるところを見ると、その内部には、鉛以上の比重を持つ金属が入っているに違いない。 「卵ですかな。宇宙人の?」  中村部長は、その場の緊張をやわらげるように冗談をとばしたが、誰《だれ》一人、笑おうとする者もなかった。  今まで、ぶきみな沈黙を続けていたこの空飛ぶ円盤が、ふたたび活動を開始したのは、その次の瞬間だった。  轟然《ごうぜん》と、地をゆるがすように響いて来た爆発に、人々はわれを忘れて、地上に身を伏せた。伏せながら、頭をもたげた中村部長の眼には、物凄《ものすご》い土煙をあげながら、地表をはなれ、ふたたび空中へ舞い上がった円盤の姿がうつった。 「写真!」  いわれるまでもなく、身を起こしていた坂本カメラマンは、青白い閃光《せんこう》を下面からはきつつ、上昇して行く円盤にむかって、ピストルキャノンのモーターシャッターを切っていた。数分後には、円盤は針の先のように輝く一点となり、たちまち白雲の彼方にかくれてしまったが、少なくとも三十六枚の組写真は、この間に撮影されたはずなのだ。 「部長、こういうことになると知ったら、ムーヴィを持って来るんでしたな」  中村部長はうなずいたが、その時立ち上がった指揮官は、ようやく命拾いをしたというような顔で、帽子をぬいで汗をぬぐうと、 「おたがいにこれでやれやれですな。しかしあの円盤は何だって、こういうところへ着陸したのでしょう。きっと機関に故障が起こって、応急修理のために、ここへ……」  と自分で自分の心をなぐさめるようにいい出した。 「そうでしょうか? その考えには、大いに疑問の余地がありますな」 「なぜです?」 「彼等が地球の引力圏外の宇宙空間を飛行出来る能力を持っているならば——いや、その能力は当然あるものと考えてかかるのが至当でしょうが、それだったら、仮に故障が起こっても、宇宙基地のような無重力の空間に停止して、修理しそうなものじゃありませんか。これだけの円盤を作って飛ばすだけの科学と技術を持っている高級な生物が、そんな間のぬけた阿呆《あほう》なまねをするというようなことは到底考えられません」  指揮官の顔には、恐怖と不安の影がかすめた。 「それではいったい何のため……もしかしたら、宇宙人がこの地球に?」 「私たちは、不時着してから何分間かは気を失っていましたから、その間にどんな事件が起こったかわかりませんが」  といった時、突然むこうから精神異常のような悲鳴とともに、カービン銃を乱射する音が聞こえた。 「宇宙人か?」  事のなりゆきから判断しても、部下の誰《だれ》かが、円盤をはなれて、地上に残った宇宙人の一人を射殺したとでも思ったのか、この指揮官はピストルをわしづかみにすると、その銃声の聞こえて来た方へかけ出した。  中村部長たちも、その跡を追って走り出したが、五人の隊員がカービン銃の斉射をあびせている目標を見て、ぎくりとしたように立ちすくんだ。  それは等身大の人間の像——青銅色の表面を見ると、誰かの銅像のように思われるが、それがどうしてこんなところにあるのだろう。これが宇宙人の、円盤の、地上に残した遺品なのか? 「射ち方止め!」  弾丸がすべて、その表面で空《むな》しくはね返されるのを見とどけて、この指揮官は鋭く叫んだ。 「いったいこれはどうしたんだ」  射撃を止めた隊員たちは、まだ歯の根もあわないほど興奮していた。ただ、その中の一人が、いくらか気丈な声で、 「隊長殿、この化け物の顔を見て下さい」 「どうしたのだ!」 「杉野君です! 杉野君が、いつの間にか、どうしたわけか、こんな銅像になってしまったじゃありませんか」  眼をこすりながら、そのそばへ近づいて行ったこの指揮官は、たちまち激しい恐怖にうたれたように、その場に昏倒《こんとう》して気を失ってしまった。  得体の知れない恐怖と好奇心をおさえながら、中村部長はこの像のそばに近づいて、その顔を見つめた。  像は全裸の立像だった。もちろん、杉野某という人間の顔は部長もこれまで一度も見たことはない。ただ、それは到底人間の手に成ったものとは考えられないほどの精巧さを持っていた。  眉毛《まゆげ》一本、睫《まつげ》一本に至るまで、それは人体そのものの復元だった。どのような写真でも最近発達した立体写真彫像にも、これほどの完璧《かんぺき》さは望めるものではない。 「杉野、杉野、杉野はいないか!」  ほかの一人が、精神異常者のように叫んだ。答えはどこからも聞こえなかった。  この名前は、部長に旅順口|閉塞《へいそく》の戦史を思い出させた。子供のころ見た、神田万世橋《かんだまんせいばし》のあたりに立っていた広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が、なぜかその瞬間、瞼《まぶた》に浮かんでしばらく離れようともしなかった。   動物を呑む卵  東洋新聞の本社から急派されたヘリコプターに乗っていた後詰めの記者に後事を託すると、中村部長は坂本カメラマンといっしょに、本社まで飛び帰って来た。  すべてのことは後廻《あとまわ》しだった。部長は左腕を裸にして、葡萄糖《ぶどうとう》の静脈注射を続けさせながら、近江|編輯《へんしゆう》局長が自分で削ってくれる鉛筆を一本とりあげては、藁半紙《わらばんし》に原稿を書きとばしていた。 「御苦労さん」  最後の一枚をひっつかんで、編輯局の給仕が階下の印刷局へとび出して行くと、初めて局長はねぎらいの言葉をかけてくれた。 「恐ろしいことになったものだね。君が飛行機をこわす覚悟で、強行着陸をしてくれなかったら、それだけの特ダネはつかめなかったろう。空飛ぶ円盤が実在するかどうかということは、十何年か前から議論の的だったが、もうこれで、その議論にも止《とど》めが刺されたわけだ。だが、その円盤はいったいどこからやって来たのだ? 中には誰《だれ》が乗っているのだ?」 「分かりません。ただ、これは人工衛星、月の着陸に続く宇宙世紀の第三幕として、歴史に残る重大事件でしたね。前の二幕は人類の側から宇宙へ挑戦《ちようせん》して行ったのだし、今度の幕は、むこうから、未知不可解の宇宙から、地球人の方へ挑戦して来たという差がありますけれども」 「うむ」  近江局長はうなずいた。立ち上がって窓のそばに近づくと、早くも訪れて来た有楽町《ゆうらくちよう》の暮色を見おろし、 「これが地球文明の黄昏《たそがれ》にならなければいいがねえ。もし、その円盤に乗りこんでいる何者かが、地球人に対して敵意を持っているとしたら、人類がその攻撃をはね返すだけの智力《ちりよく》を持っていればいいが」  と悲痛な調子でつぶやいていた。 「局長! 部長!」  血相変えた一人の記者が、この局長室へ飛びこんで来たのは、その次の瞬間だった。 「また、犠牲者が出たようです。富士|山麓《さんろく》の——あの円盤の降下地点で、自衛隊の広田という隊員が。付近一帯は、絶対に立入り禁止になりました。本社のヘリコプターも移動を命じられたようです」 「その犠牲者というのは、いったいどうしたのだ?」 「分かりません。現地は大混乱のようです。何でも人間がいなくなって、そのかわりに、銅像があらわれるというのですが、そんな精神異常者じみた話があってたまりますか」  中村部長は笑えなかった。いや、その怪奇な像をついさっき目撃して来た彼にとっては、それは精神異常者じみた話でも何でもなく、恐怖と神秘に満ちた現実の悪夢のように思われた。  ふと、彼はあることに気がついて、テーブルの上の電話器をとりあげた。 「国立科学研究所、斎藤博士を呼び出してくれ」 「なるほど、空飛ぶ円盤が、富士|山麓《さんろく》に着陸したという話は、さっき臨時ニュースでも聞いたが、それでその円盤のまわりには、無数にこういう卵形の物体が落ちていたというのだね?」  机の上におかれた卵形の奇妙な物体を見つめて、斎藤博士は強いコンタクトレンズの奥で、ぎらりと瞳《ひとみ》を輝かせた。  金属、非金属とを問わず、材料科学の分野では日本最高の権威といわれるこの博士にも、これがいかなる物質で出来ているかはわからなかったらしい。 「そうです。この物はいったい何で出来ているのでしょう」 「わからないね。僕は、こんな物は今まで一度も見たことがない」 「先生がそうおっしゃるからには、それは少なくとも、人類が、地球上で作りあげたものでないことだけは確かですね。やはりあの円盤からまき散らされた、別の天体の物質でしょうか?」 「そうかも知れない。そうでないかも知れない。とにかく、正式な科学的検査をして見なければ、はっきりしたことはいえないよ」  博士はいかにも学者らしく、明言をさけて言葉を濁《にご》したが、中村部長は不屈の新聞記者魂を発揮して、執拗《しつよう》な食い下がりを続けた。 「先生、私はこれを一眼見たとき、宇宙人の卵ではないかと思ったのですが、違いましょうか?」 「宇宙人の卵——さあ、それも何ともいえないねえ」  博士は笑いもしなかった。ただ、爛々《らんらん》と眼を光らせて、 「この触感と重さからいって、中には卵の黄身のように、金属が入っているんじゃないかと思うが、割って見てもいいだろうか?」  とたずねた。 「どうぞ。このほかにも五つ六つ拾って来ましたから、試験材料には事を欠きません」  斎藤博士はうなずいて、机の引出しからとり出したメスで、この外側の卵白にあたる部分をはがした。  その中から、顔をのぞかせた青銅色の金属の球を見たとき、中村部長の全身には、何ともいえない烈《はげ》しい悪感《おかん》と戦慄《せんりつ》が走った。 「先生! それには、その金属にはさわらないで!」 「なぜだ?」 「分かりません。ただ、恐いのです。その金属は、あの現場に残っていたふしぎな像の材料と同じもののような気がするので、見るのもさわるのも恐いのです。もしかしたら、もしかしたら……」 「もしかしたら、どうだというのだ?」 「もしかしたら、この金属は全然未知の、動物質を溶解して吸収するようなふしぎな性質を持っている物質ではないかと思うのですが、いや、これは質量不変の法則とか、物質不滅の法則とか、そういう原理を持ち出されて、素人《しろうと》考えの妄想《もうそう》だといわれればそれまでの話ですが」  といいながら、部長は額の汗をぬぐった。しかし、彼の予想に反して、博士は笑いもしなかった。 「いや、事が一旦《いつたん》、高等常識の範囲をはなれて来れば、素人の直感というものは笑えないよ。僕たちのような学者の知識は、普通の人間の常識をいくらか上まわってはいるが、たしかに、大宇宙の中には、シェイクスピアを引用するまでもなく、我々学者、いや人間の科学では想像も出来ないような神秘な現象もあり得るだろうよ」  博士は額に縦皺《たてじわ》をよせて、しばらく考えこんでいたが、やがて微生物研究室へ電話をかけて、研究用の二十日鼠《はつかねずみ》を一匹分けてもらうように依頼した。  小さな籠《かご》に入った二十日鼠がとどくと、博士はなれた手つきでそれをとり出し、竹のピンセットでその尻尾《しつぽ》をつまんで、青い金属面に接触させた。 「あッ!」  中村部長も、斎藤博士も、その助手もとたんに悲鳴をあげて飛び上がった。眼もよく見えないような鼠のおどおどしたような鼻の先が、その金属面にさわったと思った瞬間、この金属は青白い閃光《せんこう》を放った。そして一瞬後に、ピンセットをはなれて、コンクリートの床の上に落ちたものは、今まで生きていた鼠と寸分違わぬ形を持った青銅色の金属の塊《かたまり》だった。 「先生!」 「中村君、僕は君に一つしかない命を助けられたよ」  斎藤博士の声が恐怖と興奮にかすれ、震えていたことも、当然のことだったろう。  大きく両肩を波打たせながら、がたりと椅子《いす》に腰をおろし、 「富士|山麓《さんろく》で、二人の自衛隊員が、一瞬に金属の像と変わったということも、今の実験から類推すれば何のふしぎもないね。彼等は恐らく、この卵を拾って、ナイフか何かで外側の皮をむいて見たのだろう。そして、この中の金属にさわってしまったのだろうね」  と、動かない床の上の鼠を見つめながら、譫言《うわごと》のような言葉を続けた。 「とにかく一旦《いつたん》ここを出よう。この部屋でこの鼠を見ていては気が狂いそうだ」  斎藤博士の言葉には、誰《だれ》一人、異議をとなえる者もなかった。誰も生色を失いつくして死人のような顔色だった。 「先生……これは早速うちの新聞から、放送、号外、そのほかあらゆる方法を講じて、危険を警告しなければなるまいと思いますが、先生のお考えはどうなのでしょう?」  中村部長が廊下に立ち止まってたずねると、斎藤博士は大きく溜息《ためいき》をついて、 「もちろん、学者としてはまだ断言はしかねるよ。ただ、第一印象でいうなら、これはたとえば水銀のように、非常に不安定な、しかも生体の組織とすぐに化合しやすい性質を持っている超金属ではないかと思う。だから、ああして生物がちょっとさわっただけで、眼に見えない分子となって、一瞬に生物の体に浸透し、そのまま固結させてしまうのではないかと思うが」 「つまり、いうなれば食人金属ですね?」 「そうなのだ。外部を包んでいるあの白いやわらかな表皮は、中の金属を保護する役をするのだと思うが、もしも空飛ぶ円盤が、空中からこの金属を直接ばらまけば、全人類はそのまま金属の像となって、動けなくなり、何億という化石が地上に林立することになるかも知れないね……」   超金属ドラン  空飛ぶ円盤はこれと相前後して、世界の各地十数か所に着陸し、この恐るべき卵をまき散らしていた。  もちろん、人間の観測出来ない通信交通の不便な地域にも降下していたろうと推定されることだから、それまであわせて考えれば、数十台の円盤が同時に地球へ来襲したということになるだろう。  それに対して、人間の犠牲者が、最初はわずか数百名にすぎなかったということは、各国の科学者が、ほとんど同時に、斎藤博士と同じような結論に達し、この卵には接近するな、手をふれるな——とあらゆる報道機関を通じて必死に呼びかけたためだろう。  この金属は、一応ドランと名づけられた。  そして、ありとあらゆる角度から、必死の研究が続けられた。もちろん、こういう未知の物質の性質を十日や二十日できわめ尽くすということは不可能だが、研究が進めば進むほど、その恐ろしい性質は眼を見はらせるものがあった。  ドランは、ほとんどあらゆる動物を、好き嫌いなく食いつくすことが分かった。植物質や化学繊維の類《たぐい》などは、接触と同時に燃え上がることが分かった。だから、最初に富士|山麓《さんろく》で犠牲となった二人の自衛隊員が、全裸の姿で発見されたのは、その身につけていた衣服が一瞬に燃えつくしたためだろうと推定された。  ただ、石やコンクリートや、他の金属や、そういう無機物には何の反応も呈しないことが分かったがそれは何の気休めにもならなかった。ことに、一旦《いつたん》この金属を包み保護している外部のスポンジ状皮膜が、地球上の大気の中では、数日後には自然に気化して消失し、中の金属ドランがむき出しになるという報告が発表されたとき、全人類は戦慄《せんりつ》した。  それから数日して、世界の各地に相次いで起こった山火事も、このドランの自然発火に原因があるのだろうと推定された。  しかも、斎藤博士の予想した以上に恐ろしい事実が判明した。この金属は、たとえ動物を食った後でも、比重の変化があらわれなかった。  たとえば水とアルコールのように、比重の違った液体をまぜあわせれば、その混合物の比重は、純アルコールより大きく、水より小さいことになる。これは物理学の法則からいっても当然のことなのだが、自分より軽い鼠《ねずみ》を餌《えさ》にしたドランの比重が全然減少していないということは、この金属が自ら成長して行くことを示すものだった。斎藤博士は、第二、第三の動物をこのドラン鼠に接触させて見たが、この力は少しも減じてはいなかった。三匹の鼠の一《ひと》塊《かたまり》となった金属像がそこに生まれ、しかもドランの比重は全然変化しなかったのである。  この実験の報告を聞いたとき、中村部長は予想以上の事件の重大さに、戦慄《せんりつ》を禁ずることが出来なかった。 「それでは、先生、これからもどういうことが起こるかわからないわけですな。たとえば、むかしの話にある那須《なす》の殺《せつ》生石《しようせき》のように、人類の眼には見えないところに落下したこのドランが、たとえば甲虫《かぶとむし》、たとえば蛙《かえる》、たとえば蛇《へび》というように、自分に近づく動物を次から次へ呑《の》みつくして成長していったとしたならば、それは無限の大きさに達し、地球全体を死滅させるということもあり得ない話ではありませんね」 「それは大いにあり得る話だとも。極端なことをいうならば、これが海中に落下して、プランクトンや魚類を餌《えさ》に成長して行ったとするならば、いずれはドランの島なり大陸なりが生まれないともかぎらない。それにまた、たとえば原子核の分裂にしても、ウラニウムがある一定の量に達しなければ、いわゆる連鎖《れんさ》反応は起こらないけれども、それがその限界量を越えれば、一瞬に原子爆弾に使われるような大爆発を起こすわけだね。ある意味で、この超金属ドランは生きているといってもいいのだし、これがぐんぐん成長して、ある程度以上の大きさになって来たら、それからどういう異常な現象が起こって来るか、これもまた神様でもなければわからないのだ」  博士の一言一言は、まるで心臓の鼓動も停止させるような恐ろしさをもって、部長の胸をおしつけて来た。 「もし、そういう現象が起こったとしたら、この世に神様というものはあり得ないわけですね」 「何をいうのだ。もし、人類のために絶滅させられたアフリカの野獣が、人間と同じような思考能力を持っていたら、やはり神というものは存在するものだろうかと、怨嗟《えんさ》の声をあげたろうね」  博士は鋭く部長の眼を見つめ、 「人間の世界を支配するものは、あるいは正義であり、あるいは道徳法律であり、あるいは眼に見えない神だろう。ただ、博愛仁慈をモットーとするキリスト教徒でも、異教徒の撲滅《ぼくめつ》は神の意志だと信じていた時代もあったじゃないか。まして、この空飛ぶ円盤を飛ばしているのは、人類とは全く違った環境で何億年となく過ごして来た別の遊星人だと思わなければなるまい。彼等との間に意思の疎通《そつう》をはかろうなどと思う方が間違っている。力には力、科学に対しては科学を以《もつ》て対抗する一手あるのみだ」 「非情な考えのようですが、それがこの世の現実なのでしょうね」 「そうだとも。科学というものはもともと非情そのものなのだ」  中村部長は大きく喘《あえ》いで、 「それでは先生、いまさしあたりの大問題は、この食人金属、ドランを撲滅《ぼくめつ》することですね。もちろん、空飛ぶ円盤は二度三度と攻撃をくり返しては来るでしょうが、その対策は後まわしにして。どういう方法をとればよいのでしょう?」 「世界の科学者は今度ばかりは完全に一致団結したよ。もう地球上には、鉄のカーテンもなくなった。資本主義も共産主義も米国もソ連も、この円盤と、ドランとの戦争には、歩調をそろえ、あらゆる情報を交換しあって協力しあうことになったのだが、人類の多年にわたって、待望しながら、しかも実現出来なかった大理想が、こういう土壇場《どたんば》になって具体化したということは実に皮肉な現象だね。全人類は一体なり——この標語が、消え去ろうとする蝋燭《ろうそく》の灯《あかり》が、最後の一瞬、ぱっと輝きを増すような一時の興奮に終わらなければいいが」  博士の表情はきびしかった。それは科学者の思索《しさく》の姿というよりも、哲学者、宗教家の瞑想《めいそう》する姿に似ていた。 「それで、先生、実際問題として、このドランを滅亡させる方法はどうすればよいのでしょう。これも素人《しろうと》考えですが、火焔《かえん》放射器か何かを使ったら」 「それはアメリカで実験ずみなのだ。ドランは千三百度では完全に熔解《ようかい》する。ただ、それが冷却して常温に返れば、また前と同じ性質をとりもどすということが分かっている。だから高熱を加えても、熔《と》けて流れたり、熱い火花になって飛び散ったりする危険を増大するばかりだ。百害あって一利もない」 「それでは、何かの化学薬品で溶解して、無害の物質に変えてしまうということは出来ないのでしょうか。これも素人考えですが、金属そのものでは危険な存在であっても、化合物になってしまえば……」  斎藤博士はうなずいた。 「ここの研究所ばかりではなく、いま全世界の化学者たちは、必死にその問題ととっくんでいるよ。僕などが見たところでも現在眼前のさし迫った危機を一応回避するには、それしか方法がないと思われる。ただ、問題はどういう化学薬品をどういう条件で使用するかだ。硝酸、硫酸、塩酸など、ありふれた化学薬品では、このドランには何の効力もなさそうだ」  時限爆弾を懐中に抱いているような思いで、世界の人類は、それから十日の間、ドランと必死の戦いを続けた。  そして、フランスの一科学者、ロベール・カザドジュが、遂にドランを溶解する薬品を発見したときには、今まで恐怖のどん底に呻吟《しんぎん》していた全人類は、初めて起死回生の思いを抱いた。  それは、重クロム酸カリと青酸水銀、それに二、三の劇毒を混合して作った溶液だったが、これをドランの表面に吹きつければ、この恐るべき金属はたちまち食人性能を失い、無害の白い粉末になってしまうことが発見されたのである。  この製法を伝えられた各国は、ただちにこの薬品の製造にかかった。  実験の結果は、完璧《かんぺき》な成功だった。人類はようやく、空飛ぶ円盤の最初の攻撃をはね返す武器を手に入れたのだ。  もちろん、彼等の第二第三の攻撃が、どのような方法で行われるか、それは地上の何者にも予想の出来ることではなかった。  しかし、人類全体の強固な団結と協力とが、人類以上の高度の科学文明を持つ宇宙人の攻撃をも撃退出来るという確信を抱いたことは、この時人類の胸の中に、新たに点じられた希望の灯であった。  もちろん、この青年化学者に対しては、ノーベル化学賞、平和賞が授けられるだろうということも、当然予想されることだった。  この二十日近くの死闘をふり返って、中村部長は何度も大きく溜息《ためいき》をついた。この食人金属ドランが、ふたたび彼の面前であのように恐ろしく、しかも妖美《ようび》な光景を展開してくれようとは予測も出来なかったのである。   金属の恋  後にドラン戦争と呼ばれたこの戦いが一段落して、初めて東洋新聞社の社会部も、その本来の姿に立ち返ることが出来た。  たしかに、人類全体の死命を制するかも知れないようなこの大事件の前には、殺人、放火、強盗、自殺——そのほか一人一人の人間が演ずる煩悩《ぼんのう》の劇などは、誰《だれ》の注意をもひくことはなかったのである。  だから、編輯《へんしゆう》局のデスクに坐《すわ》っていた中村部長が、電話で警視庁詰めの水野記者から、坂本カメラマンに関する事件のことを聞いた時には自分の耳を疑ったくらいであった。 「部長、大変、大変です。うちの坂本君に、警視庁が眼をつけているんです!」 「何だと!」  部長も思わず声を高くして問い返した。どうせ、こういう機密事項は、警視庁内の控室ではなく、どこかの公衆電話なり、喫茶店なりから電話をしているに違いないが、水野記者の声が聞きとり難《にく》いくらいに低く小さかったのは、長年の警視庁詰めの間に自然と身についた第二の天性とでもいえるような防衛本能だったろう。 「事件は何だ!」 「殺人——殺人の容疑です」 「殺人だと! いったい彼が、誰を殺したというんだ!」  部長も声をふるわせた。性格も温厚|篤実《とくじつ》だし、頭も人なみ以上にすぐれたこの美青年、どうしてまた、こういう激情の虜《とりこ》となったのかと、部長にはそれが不思議でたまらなかった。そういえばたしかに、十日ほど、社には姿を見せなかったような気もするが、これだけ激しい戦争のような事件が突発しては、社員一人一人の動きなどに、気をくばっている余裕もなかったのである。 「相手は誰《だれ》だ?」 「大村初子という女——坂本君が命がけで惚《ほ》れていた相手です。ところが、彼を袖《そで》にしてほかの男と結婚するというので」 「それでかっとなってやったのか! 死体は発見されたのか!」 「それがまだなのです。ただ、女の家から女が行方不明になったという知らせがあったので……警視庁で、彼のところを捜索して見たら」 「どうしたのだ!」 「ドランです。ガラス瓶に入ったドランの塊《かたまり》がいくつも発見されたのですよ」 「ドラン!」  この恐るべき食人金属の名前を耳にして、部長は新たな戦慄《せんりつ》を感じた。  たしかに彼なら、自分と同時に、富士|山麓《さんろく》からこの恐るべき卵を幾つでも持ち帰れる機会に恵まれていたはずなのだ。もちろん、最初は何気なく、ほんの好奇心から記念品のつもりで持って帰ったのに違いはないが、今となっては、これはたしかに拳銃《けんじゆう》よりも爆弾よりも更に恐ろしい威力を持つ殺人の凶器に違いない。 「警視庁では、一応指名手配をするということです。ただ、知合いの刑事がわざわざ僕を呼んで、もし居場所が分かるなら、自首をすすめろ。これが武士の情けだと耳うちしてくれたのです。ですから、デスクへも話さずに、部長へ直々《じきじき》電話をかけたわけですが、これはどうしたらいいでしょう」  何しろ事件が事件だから、中村部長もいつものように、快刀乱麻を絶つような即答は出来かねた。 「十分待て。十分したらもう一度電話をかけてくれ」  といって、部長は一旦《いつたん》電話を切り、無意識に煙草《たばこ》をとり出して火をつけた。 「部長、坂本カメラマンから電話です」 「何だと!」  中村部長は愕然《がくぜん》とした。火のついたままの煙草が机の上に落ちたことも忘れて、受話器をとりあげ、 「坂本君か? どうしたのだ?」 「部長」  相手も、激しい興奮のあまり、声も出ないようだった。嗚咽《おえつ》のようなひくい声が、受話器を通して部長の耳にも伝わって来た。 「とにかく心配していたぞ。女はどうした。大村初子という女は、やっぱりやってしまったのか?」 「そうです……」 「ドランでか?」 「そうです……」  中村部長も、九天の上から九地の下へたたき落とされた思いだった。よもやと信じた一縷《いちる》の望みも、今はむなしく粉砕されてしまったのだ。思わず声を大きくして、 「まあ、過ぎたことを今さらいってみてもしかたがない。本社へやって来るがよい。僕なり、ほかの誰《だれ》かがいっしょに警視庁までつれて行ってやろう。自首して出れば、罪一等を減じられるのは法律的な常識だ」 「行けません。どこへも」 「なぜだ?」 「彼女の——彼女の像からは、どうしても離れ切れないのです。ここまで、ここまで電話をかけにやって来るのが、僕としては精いっぱいのところでした」 「それで、それで、君はいまどこにいる?」  素直に答えてくれるとは思わなかったが、それでも部長は一応だめをおさずにはいられなかった。  ところが、相手は、はりつめた気持も一度に崩れてしまったのか、 「経堂《きようどう》の叔父《おじ》の家——いま、空屋《あきや》になっていますが、三丁目の三八五番、関屋という表札の出た家です」 「よし、僕が行く。これからすぐに行ってやるから待っていろ」  部長は電話をおいて立ち上がった。  執務時間中に、社会部長が本社をはなれるということは例外というべき出来事だった。しかし、この追いつめられた青年をなぐさめ、自首して出させるためには、どんなことでもするしかないと、部長はその時決意したのだった。  その家の前で車を乗りすて、家の中をのぞいた時に、中村部長はあっと叫んだ。  宏壮な家の洋間には、青銅の裸女の像が大理石の床の上に立っている。  ドランの恐るべき力によって、一瞬に金属と化した大村初子の死体だな——と、部長は一眼で見やぶった。  だが、それ以上に部長を震え上がらせたものは、この像よりも窓に背をむけ、拳銃《けんじゆう》をむけている警官の後ろ姿と、その像のそばに仁王立ちにつっ立ち、何かを手にふりかざしている坂本青年の怒号だった。 「寄るな! そのピストルを捨てろ。さもないと、このドランの壜《びん》をお見舞いするぞ」 「待て!」  われを忘れて部長は叫んだ。そして、身をひるがえして、靴のまま、玄関から家の中へ飛びこみ、警官の拳銃の前に大手をひろげて立ちはだかると、 「坂本君、馬鹿なまねはよせ。さあ、僕といっしょに警察へ行くのだ」  と鋭くいった。 「部長……」  相手は崩れるように片手をおろした。そのやつれ、青白く変わった髯面《ひげづら》は、部長にはこの上もなくいたましいものに思われた。 「どうしてこういうことをしたのだ。この世の中に、女は星の数ほどあるというのに……」 「たとえ、何億、何千万人女はいても、私が女と認めるのは彼女一人のほかにはなかったのです……」  たしかに恋は盲目なのだ。部長は大きく溜息《ためいき》をついて、床の上に立っている魔像の顔を見つめた。これはたしかに、この世のものとも思えぬ美女に違いなかった。花のようなその顔は、苦悶《くもん》の跡一つとどめず、謎《なぞ》のような微笑さえ浮かべていた。その均勢のとれた肢体《したい》も、完璧《かんぺき》の芸術品を見ているように美しかった……たしかに、これがドランの像でなかったら、美術館におさめて、長く後世に伝えたいほどのものだった。 「部長、わかりますか。私の気持が——これを一眼見て下されば、私がここから離れきれない気持がおわかりでしょう……」  すすり泣くように、相手は続けた。 「さようなら……部長。永久にさようなら」  止める暇も何もなかった。この青年は身をおどらせて、この立像に飛びついた。 「あッ!」  とたんに、彼の身につけていた洋服はめらめらと青白い鬼火のように燃え上がった。それと同時に、女の像は白熱の状態となって蠢動《しゆんどう》した。  男の体も、それとともに、白熱の金属と化し去った。だが、命を持たないはずのこの二つの金属はとたんに奇跡的な運動を始め、腕をのばし、たがいに固く相手を抱擁し、唇を接し、そして次第に、また青黒い冷たい彫像と変わっていった。  そして、その後に残されたものは、巨匠ロダンの最高傑作といわれる『接吻《せつぷん》』の像に、まさるとも劣らぬ二人の像だった。  中村部長も、しばらくは息もつけずにこの像を凝視《ぎようし》していた。いずれは、溶解されるこの二人の不滅の恋の姿を、いつまでも自分の脳裡《のうり》にとどめておこうとするように……  やがて、彼は背後の警官をふり返り、ひとりごとのようにつぶやいた。 「愛というものはたしかに奇跡を生むものだね。金属と化した女の肉体が、身を捨てた男の突撃に、こういう風に応ずるとは、誰《だれ》にも予想出来なかったろうね……」  その同じころ、空飛ぶ円盤二十隻から成る大集団は、ふたたび地球から三千キロの空間を、地球へむかって前進をつづけていた。  妖術師     一  そのむかし、蛇性の淫《いん》という言い伝えがあったそうな。  身の長さ、何丈という、恐ろしい大蛇が、絵に描《か》いた小姓のような、美しい若衆姿に身をかえて、毎晩毎夜、思いをかけた、女のもとを訪れる。女は人間の男を相手にしては、到底満たさるべくもない、恋の炎に思いをこがし、身も世もあらぬ煩悩《ぼんのう》の虜《とりこ》となって、蝋燭《ろうそく》の燃えさしのように、やせ衰え、遂にはその身を滅してしまう、という伝説である。  大蛇は、時により、相手の性別によって、あるいは美女となり、あるいは色若衆となって現われている。  科学という洗礼を、まだ受けていなかった、素朴《そぼく》な人の考え方だ、として、一笑に付してはいけない。  今も昔も、人間の根本の考え方には、決して大差がないのである。我々現代人でさえ、科学の進歩を誇りながらも、案外心の奥底では、未知の力の底知れぬ恐ろしさ、科学の力では、説明の出来ない、神秘現象に対しては、ひそかに冷たい戦慄《せんりつ》を、感じないではおられぬのだ。  自らの力を越え、限られた個人個人の常識では、説明のできない、力を持った巨人の前に出ては、人間の力は脆《もろ》くかよわい。どれほど必死に抵抗しようとして見ても、所詮《しよせん》は、風になびく一本の葦《あし》のように、頭を下げるか、吹き折られずには、おられないものと見える。  たとえば、あの妖術師《ようじゆつし》の物語が、その恐ろしい一例であった。     二 「予言者ですって。まあ、あなたのような二十世紀の青年が、そんな夢のようなことを信用なさるの」  麻耶子《まやこ》夫人は、玉虫色の口紅を濃く塗った唇に、小さな手をあてて、ホホホと笑った。 「いや、奥さん、笑っちゃいけません。僕もそりゃあ、初めは信用しなかったんですけどね。恐ろしいまで、ズバリズバリなんですよ。ミイラ取りが、ミイラになったという形ですね」  答えたのは、日高という、若い大学の学生であった。大学生といっても、この頃《ごろ》では、金ボタンや角帽には、てんで未練も魅力もないらしく、りゅうとした仕立下ろしの背広を、しっくりと着こなした様子は、まるで一角《ひとかど》の青年紳士である。 「ちょうどいいわ。そんなものを信用する人間は、ミイラになって、前世紀の遺物でござい、と貼《は》り札をして、博物館か見世物行き。そんなところが似合っていてよ」 「奥さんったら、相変わらず口が悪いな。そんなことをいわないで、一ぺん行ってごらんなさい。それで僕のことを笑えたら、僕はそれこそどんなことでもしますよ。ミイラになって、見世物小屋へ出たっていいし、それとも逆立ちして、このホールを三べん廻《まわ》りましょうか」  雨のせいか、まだ時間は、それほど遅くはないはずなのに、広いホールには、今夜はひどく人影がまばらだった。二組、三組、数えるばかりの男女が、抱き合い、頬《ほお》を寄せて、空《うつ》ろな床に踊っていた。楽師達が、浮き立たぬ、この場の雰囲気《ふんいき》をかき立てようと、努力すればするほど、華《はな》やかなるべきメロディは、かえって一層空々しく、七彩《しちさい》の光のおりなす、幻《まぼろし》の国の中を、現実的な響きを残し、片隅に残された、夢の断片さえ追い払うように、淋《さび》しく流れて行くのであった。 「今夜は何だか、このホールも淋しいわね。いやな日高さん。こんな時に、そんな話をなすったりして、ひどいわ。踊って、詰らない妄想なんか、吹っ飛ばしてしまいなさいよ」 「それでは、奥さん、お相手します」 「エチケットだけは、心得ているわね」  だが立ち上がった青年の顔は、いつの間にか、全く血の気を失っていた。それは決して、その真上から照らしている、青いネオンのためではなかった。 「どうしたの、何だって、そんな丸太ん棒のように突っ立ってるのよ」  青年の全身は、細かくガタガタ震えていた。口もとには、緊張の色がたしかに争えなかった。 「奥さん、来ている。来ている……」 「誰《だれ》が……」 「あの予言者が……」  ふり返って、麻耶子夫人も、ギクリとした。予言者という言葉から、受けた印象とは、大分違っていたといえる。だがボロボロのオーバーに、黒《くろ》眼鏡《めがね》、油もつけずに、バサバサとした頭髪は、この豪華を誇ったホールには、決してふさわしい客ではなかった。 「あんな恰好《かつこう》の人なんか、入口で断わっちまうはずなのに、変ね。どうして入って来たんでしょう」  その言葉が、麻耶子の口から、消えたか消えぬ時であった。その予言者は、自分の姿を恥じらう風もなく、昂然《こうぜん》と胸をそらして、二人の側《そば》に、つかつかと歩み寄って来た。 「日高さんでしたね。今日はまた、とんだ所でお目にかかりますな。論文の方は、もうよろしいのですか。ところで、こちらの御婦人はおつれですかな」  低い、おし潰《つぶ》したような声であった。 「ええ……あの、奥さん。こちらがさっきお話しした、黒崎一清先生、こちらが……」 「紹介なんか、いらなくてよ」  麻耶子は、ツンと横を向いた。 「いや、全く御紹介などいりません。私には、人間の顔さえ一度見たならば、過去現在未来と、その人の一生が、即座に頭に閃《ひらめ》くのですから、その人の名前など、実はどうでもいいことです」 「あなたはずいぶん、大層なことを、おっしゃるのね。予言者なんて、日高さんがいうもんだから、モーゼの彫像《ちようぞう》みたいに、額に一本、大きな角が生えているか、それとも、黒|紋付《もんつき》の羽織袴《はおりはかま》で、雄の山羊のような、長い顎髭《あごひげ》を生やしていて、算木|筮竹《ぜいちく》をジャラジャラさせる、お爺《じい》さんかと思っていたわ」 「そんな見かけで、人の真価を判断なさるものじゃありません」 「そう。あなたのいうことが本当なら、わたしの運命はどうなってるの。手を出しましょうか。右手、左手。それとも天眼鏡《てんがんきよう》で、顔の黒子《ほくろ》でも、お探しになるの」  麻耶子は、楽の音も、自分のさっきの言葉も忘れ、何だかむきになっていた。この予言者の、人を喰《く》ったような、傍若無人《ぼうじやくぶじん》の態度が、ちょっと小癪《こしやく》にさわったのであろう。 「あなたは、今年二十八ですか」 「失礼ね。御婦人に、年をたずねるもんじゃないわよ」  その声の調子は、前ほどきびしくなかった。 「二十二の時に結婚なすったでしょう」 「まあ、そんな所ね……」 「御実家は、大分れっきとした名家ですが、没落なさったと見えますな。あなたは、それを救うために、自分の好まぬ、政略結婚をさせられました。だから、旦那《だんな》さまも、親子のように、年がちがうでしょう。ちょうど五十四歳と見ましたが、外《はず》れましたか」 「ちょっと、日高さん、あなた、わたしのことをお話ししたんじゃない」  麻耶子は、鋭く傍の青年を見つめた。 「とんでもない……それ、御覧なさい。奥さんだって、そろそろ信用なさり始めたじゃありませんか」 「あなたなんか、黙ってらっしゃい。一人でそっちで踊って来てよ……ちょっと、おかけになって、もう少し、くわしく言って下さらない……」  麻耶子は、元のテーブルに腰をおろし、その予言者にも、席をすすめた。 「くわしくお聞きになりたいというのなら、どんなくわしいことでも申し上げますよ。あなたは、前に、美術学校の学生を愛しておられた。その思い出が、心の中に、大きな傷口を残しているものだから、旦那さまに満足できないで、今でも自分の側《そば》に、大勢の若い男を引きよせて、その空隙《くうげき》を満たそうとしていらっしゃる……」 「…………」  麻耶子は、とたんに青ざめて、黙りこくってしまった。男の言葉は、それから大分つづいたが、一々思い当たることがあるのであろう。いつの間にか、はりつめていた両肩を、力なく落として、ただうなずいているばかりであった。  最後に男は、立ち上がって、麻耶子の耳に、何か鋭い一言を、ひくくささやいたかと思うと、電気でもかけられたように、ピクリと飛び上がろうとした、女の姿をふり返ろうともせず、コツコツと床を鳴らして、入口の方へ歩みを運んで行った。 「奥さん、いかがでした。これでも僕を、前世紀の遺物だとおっしゃいますか」  いつの間にか、あの日高という青年が、麻耶子の後ろに立っていた。 「ふしぎな人ね……もしかしたら、わたしのことだけを、くわしく調べてるんじゃない」 「そんなことがあるもんですか、どんな人にあうか、知れやしないのに、一々調べはつきませんよ。僕の時だって、ピタリピタリ、恐ろしくなるほどでしたよ……  奥さん、これからどうなるって、いわれました……」 「いいのよ、いいの、何でもないの」 「奥さま、どうも大変申しわけないことをいたしました。あのような男は、ここへは入れないことになっておりますのに、どうしてどこから入りこみましたものか……何かしきりに、お話をなさっておいででしたから、遠慮いたしておりましたが、何か失礼でもいたしませんでございましょうか」  ホールのボーイが身をかがめた。 「何もあなたが、そんなに心配することはなくってよ……、日高さん、もう帰りましょう」 「奥さん、もう帰るんですか。悪いことをいったなあ。そんなに気になすっちゃ、いけませんよ」  麻耶子は、もう一言も答えずに、先に立って、つかつかとロビーに出た。毛皮のオーバーに袖《そで》を通し、銀狐《ぎんぎつね》の襟巻《えりまき》を、首にまきつけたが、その手は、まだブルブルと震えていた。  その面長の瓜実顔《うりざねがお》も、いまは全く生色がなかったといえる。 「自動車を呼んでちょうだい……」  それだけ言うのが、いまの麻耶子には、いっぱいだった。 「お送りしましょうか」  心配そうに、窓から顔をのぞかせた青年に、麻耶子は大きく首をふった。 「今日はもう、わたし一人になりたいの。お休みなさいね……」  静かに滑り出した、自動車のクッションに、深く身を沈めながら、麻耶子は反芻《はんすう》するように、あの予言者の言葉を一つ一つ、自分の口に上せていた。  ——あなたは、富と贅沢《ぜいたく》の中に、埋もれていなければ、一日でも生きては行けない人。——いまの旦那さんを棄《す》てたなら、あなたには、我慢出来ない、貧しい生活が訪れて来る。——あの人との関係が夫に知れたら、身の破滅。  だが最後に、彼が耳にささやいた、あの恐ろしい一言だけは、麻耶子はどうしても、口に上せる勇気がなかった。     三  麻耶子は、足音をしのばせて、二階の階段を上がった。  いつもなら、もっと大っぴらに、ジャズソングでも歌いながら、足音も高らかに、二階の寝室へ、上がって行くのが常だった。  夫の柴田謹一は、何ともいわない。  困った子だね。また遊んで来たのかい、と吐き出すように言うか、白髪《しらが》の大分まじって来た、太い眉《まゆ》を、ピクリとひそめるくらいのものであった。  麻耶子は、自分の美しい、若鮎《わかあゆ》のような肉体に、十分の自信を持っていた。どうせ金で買われて来た女ですもの。このぐらいの我儘《わがまま》は当たり前よ、といいたいほどの気持であった。だが、今日のあの予言者の言葉が真実なら、その推量には、大分誤算があったといえる。  キリキリと、唇を血の出るほどに、噛《か》みしめながら、麻耶子は寝室の扉《とびら》をそっと、音のしないように、十分注意して開けた。  いけない、と、その時、麻耶子は直感した。  夫はまだ、床についてはいなかった。そればかりか、今日はたしかに、ふだんとは様子がちがうのである。  ゆったりした、パジャマの上に、部屋着をまとって、両手を腰のあたりに組み、独房に監禁された囚人のように、コツコツと部屋の中を歩き廻《まわ》っている…… 「麻耶子、そこへおかけ」  結婚してから、まだ一度も聞いたことのない、実業家の面目を丸出しにした、秋霜烈日とでも、いいたいような、声であった。 「はい……」  いつもなら、何をあんた、そんなに怒ってんのよ、と鼻声で、甘えて見せるところだったが、今夜はまるで、検事の論告を聞こうとする、被告のような気持であった。 「今までどこを遊び歩いていたんだね」 「すみません……」  何年となく、口から出たことのない、一言であった。 「今夜は、誰《だれ》と一緒だったんだい。水木君だろう……」 「いいえ」 「かくしたってだめだよ。わしには、もう何も彼も分かっているんだ。そりゃあ、わしはこうした年寄りだし、お前はまだまだ若いんだから、お前がわしに、満足出来ない気持は、満更分からないでもない。  しかし古い考え方かも知れないが、やはり結婚した女には、妻としての道があると思う。今日までは、わしもまさかと思っていた。だが、お前がまだ、わしの寛容に甘えて、いつまでも、水木君との関係を、つづけているようだったら、わしにも実業家としての体面もある。柴田謹一は、女房一人自分の思うままには出来ないのか、と後ろ指をさされて、笑われるのは、わしは死ぬより辛《つら》いのだ」 「…………」 「麻耶子、今日は中途半端の返事は聞きたいとは思わない。お前は水木君と、道ならぬ関係に陥《お》ちてはいないかね」  今夜の麻耶子には、首を横にふる、それだけのことが、どうしても出来なかった。 「やっぱり、そうだったのか……」  彼は大きく歎息して、スラリとした、羚羊《かもしか》のような麻耶子の両足を、いつまでも眺めていた。 「まあ、過ぎたことは、とがめ立てても、今更どうにもなるわけじゃない……  だがこれからは、わしを今までのような、寛大な夫と思っちゃいけないよ。まあ、今夜一晩、ゆっくり考えて見るんだね……  わしか、水木君か、どっちか一人を選ぶんだ。わしは中途で妥協は出来ない男だ。オール、オア、ナッシング。判断は、お前の気持に任せるとしよう。お休み……」  カタリと、隣の部屋の閂《かんぬき》の落ちる音を、麻耶子は、自分のベッドの上で、大きく泣きじゃくりながら、聞いていた。  破局は、思いの外《ほか》に、早く来た。  突然、麻耶子は顔を上げて、壁の上を恐ろしい目で見つめた。二筋三筋、豊頬《ほうきよう》は涙の跡に濡《ぬ》れてはいたが、黒い瞳《ひとみ》は憑《つ》かれたように、不気味な光を放っていた。    四  中世期の西洋の、妖術師《ようじゆつし》の住家はこんなものではないかと、麻耶子は、緊張しきった心にも、なお肌寒いものを覚えた。  焼け跡の、コンクリートの建物を、どうにか住めるように直した、見すぼらしい小屋である。昔ならば、定めし、乞食《こじき》の住家とでも、いうような所であろう。  焼けたトタンの屋根からは、所々に、冬の青空が透《す》けて見える。方々に、缶詰《かんづめ》の空缶《あきかん》が並べてあるのは、雨の滴《しずく》を受ける用意に違いない。  壁には埋高《うずたか》く、薄汚い難《むずか》しそうな、横文字の本が積んであった。どんな本か、麻耶子は題さえ読もうとはしなかった。  斜めに渡した荒削りの板に、大きな目覚し時計が、ぶら下がっている。チクタクと、大分狂った、時間を刻んで動いていた。  半分開いたケースの中の、埃《ほこり》にまみれたヴァイオリンの上に、一匹の大きな黒猫が、背を丸くしてうずくまっていた。ゴロゴロとしきりに喉《のど》を鳴らしながら、金色のよく輝く目で、麻耶子の方を見つめている。  乱雑に散乱している炊事道具、プーンと垢《あか》じみた、男の体臭《たいしゆう》を放って来る夜具や下着。  この時間なら、大抵家にいる、と日高青年はいったのに、主人の姿だけが、どこにもなかった。  後ろを振りかえって見て、麻耶子はオヤと思った。胸の動悸《どうき》が激しくなり、このような切羽詰まった気持の中でも、頬《ほお》が恥じらいに赤くなって行くような気がした。  一枚の鉛筆のスケッチが、入口の脇《わき》の壁の上に貼《は》られてあった。念を入れて、描いたようなものではないが、どことなく、優《すぐ》れた才能の閃《ひらめ》きがある。水木|晉《すすむ》でも、こんなものは画けないかも知れないと、麻耶子は余計なことまで考えた。  だが、それは自分の横顔ではないか——  あんなわずかの時間だったのに、しかも薄暗い照明しかない、テーブルを挿《はさ》んでの会話だったのに、どうしてこれほど、鋭く自分の特長が、つかめたのだろう。  麻耶子は、何か腹立たしいものを感じた。こうして自分が、こんなに中で、イライラしているのに、水木晉は、外で何のわだかまりも感ぜずに、呑気《のんき》に口笛など吹いて待っている。景色でも、スケッチしているのだろう。自分がこんなに、苦しんでいるのも知らないで……  向こうの壁の、赤銹《あかさ》びたトタン板の戸が、バタンと開いた。麻耶子はさっと身構えた。 「いらっしゃい。今日あたり、お見えになると思っていましたよ」  この男は、年寄りなのか、青年なのか、それさえはっきりしなかった。五十に近い老人とも思えるし、自分とはいくつも違わないとも思われる。何といっても、ふしぎな男に違いなかった。 「まあ、おかけになったら」  足の揃《そろ》わない、ガタガタの椅子《いす》を、男はひっぱり出した。 「いいえ、立っていた方が結構ですわ」 「そうですか。それじゃあ、無理におすすめしませんよ……」 「今日はわたくし、ただ一つ、おうかがいしたいことがあって、わざわざおうかがいしましたの。  これまでの、わたくしの生涯について、おっしゃったあなたの言葉は、恐ろしいほど、よく当たりました。それは決して、わたくしも否定しません。  ですが、これから起こること、あれも過去の事件のように、そのまま当たるものでしょうか……」 「過去だって、未来だって、万能の力を持った人間の目にはすべてが見通しなんです」 「それだけの力をお持ちなら、何だって、こんな生活を、続けておいでになりますの……」 「奥さん。人間の幸福というものは、決して物質の中に、求められるもんじゃありません。金で幸福が買えるものなら、あなたはこうして、いま私の荒屋《あばらや》へおいでになることはなかったでしょう」  麻耶子の心を、鋭く突き刺すような一言であった。思わず一、二歩踏み出して、低い、しかし力のこもった声で、女はたずねた。 「あなたの昨夜、一番最後におっしゃったこと、あれは本当——本当なんですの」 「あなたは、自分の手で夫を殺さねばすまない、運命にある女だ、と私の言った言葉のことですか。決して間違いはありませんとも。いや、そればかりではありません。もっと恐ろしいことさえ起こるかも知れませんね」 「それでわたくしは、法律に問われる身にはなるのでしょうか」 「人を殺して、死刑になる、などというのは愚人の業です。少し探偵小説を読んで御覧なさい。巧妙に計画され、一分の隙《すき》もないように仕組まれた犯罪こそ、かえって発覚の危険が多いものなのです。本当の完全犯罪というものは、どこにも他殺の痕跡《こんせき》を残さないこと。天衣無縫《てんいむほう》、過失死を装わせることの方が、ずっと危険は少ないのですよ」  この予言者は、恐ろしい真理をズバリと言い切って、口もとにかすかな微笑を浮かべながら、麻耶子の顔を、穴のあくほど、見つめているのであった。  麻耶子は、それ以上、一言も口をきく、元気がなかった。 「さようなら、お邪魔しました」 「おや、もうお帰りですか。またそのうちにおいでなさい」  光の弱い、冬の日の太陽であったが、麻耶子は外へ歩み出た時、日射しの強さに、目のくらむような気がした。  倒れそうになって、一、二歩よろよろよろめきながら、ハンケチで額の汗を拭《ぬぐ》った。  水木晉は、と見れば、向こうで赤いベレーを斜めにかぶり、ズボンのポケットに両手をつっこみ、口笛を吹きながら、一心に子供の野球を眺めている。何の邪心も感じられない、十二、三の少年のような、愛らしい姿であった。 「水木さん——」 「奥さん、もう御用はおすみなんですか」  白い歯を見せて、ニッコリ笑いながら、かけて来る姿を見て、麻耶子は心につぶやいていた。  ——まだ子供なんだわね。この人は。  だが、その子供のような男のことが、どうしても今の麻耶子には、あきらめ切れないものなのだった。     五  麻耶子は、すべてをあきらめて、柔順な、貞節な妻となった。  少なくとも、そのかげにひそんでいる、恐ろしい意図を知らない、善良な夫、謹一はそう思った。  だから、二人がむかし新婚の旅を続けた、山の別荘へ、出かけようと、麻耶子がいい出した時にも、旧交を温めるのもいいだろうと、一議にも及ばず、承知したのである。  残雪のまだ解けやらない、春の山には、肌身を切るような、つめたい風が吹き過ぎている。  こんな所に、滞在しているより、もっと温かい伊豆《いず》あたりへ、出かけた方がよくはないかと、口まで出かけた言葉を、彼は奥歯で噛《か》み殺した。  妻の姿が、晴々として美しく、幸福そうに見えたから——  別荘に着いた翌朝、二人は裏山の方へ散歩に出た。謹一は何も気づかず、時々枯れ木の小枝を折りながら、ずんずん狭い山道を上がって行った。  麻耶子は、唇を噛み噛み、その後へついて行く。肩幅の広い夫の後ろ姿の野暮臭《やぼくさ》さを見るたびに、二月以上、会うことさえも避けている、水木晉の、すらりとした、華奢《きやしや》な体のことを思って、総身がうずくような気がした。  坂道を上り切って、謹一は断崖《だんがい》の方を向いて立っている。白い朝霧が、山の背に沿って吹き上げてくる風に乗って、温泉から湧《わ》き上がって来る蒸気のように、その全身を包んでいた。下からは、淙々《そうそう》の川の音、霧で見えぬが、そこは千仞《せんじん》の絶壁であった。  突然、夫は振り返った。 「麻耶子、お前は黒崎一清という、予言者のところを訪ねて行ったそうだね——」  麻耶子は、全身の血液が、その刹那《せつな》、熱湯となって、頭に逆流して行くような気がした。——この人は、あの予言者のことを、知っている!  ——それならば、あの恐ろしい予言のことも知っているのに違いない!  どうして夫がそれを知ったか、麻耶子にはそこまで考えている余裕はなかった。  雌豹《めひよう》のように躍り上がると、麻耶子は夫の腰に飛びついて、その体を断崖の下に突きとばした。 「何をする——」  ほんの今まで、口もとに浮かんでいた微笑を、そのままこわばらせたと思うと、謹一の体は、フラフラと二、三歩よろめいて、狭霧《さぎり》の中へ消えて行った。  キャーッ  絶壁の上にひざまずいて、下をのぞきこんでいた、麻耶子の耳に伝わって来たのは、夫の断末魔の絶叫であろうか。  バサバサと、羽音を立てて、一羽の鵲《かささぎ》が飛び上がって来た外《ほか》には、何も聞こえぬ山の静かな朝であった。  ——誰《だれ》も見てはいなかった。過《あやま》って足をすべらした。と申し立てれば、それですむのだ。  だが、麻耶子の確信は、たちまち根本から崩れて行った。いつの間にか、その背後には、一人の男が立っていた。射るような眼差《まなざ》しで、麻耶子の姿を見つめていた。  それは、あの恐ろしい予言者、黒崎一清と名のる男であった。 「奥さん、とうとうやってしまいましたね。すっかりこの場で拝見しましたよ」 「あなたは……あなたは、何んという……恐ろしい人なのです」  麻耶子はまさに、鬼女さながらの姿であった。 「御安心なさい。私のほかには誰一人、奥さんのしたことを、見ていた者はありません」 「あなたは、わたしを警察へ訴えるつもり」 「とんでもない。私は人間の作った法律などという物に、何の意味も認めてはいないのです。ただ、人間というものが、運命という力の前に、どんなに小さい存在か——その姿をじっと見守っているだけです。  奥さん、これで私の復讐《ふくしゆう》はすみました」 「復讐——何の復讐なんです」 「七年前、あなたに捨てられた、森原兼作は、美と芸術と人生に、その希望と情熱を失いつくしてしまいました。その代わり、悪魔に自分の魂を売り、邪神に仕える妖術師《ようじゆつし》となって、いまこうしてあなたの前に、立ちはだかっているのです」  すばやく取り去った、黒《くろ》眼鏡《めがね》の下に、麻耶子は忘れ得ぬ、初恋の人の眼を見出した。 「ああ——」  つんざくような叫びを洩《も》らし、両手で顔をおさえながら、夫の後を追って、身を躍らせようとした、麻耶子の体を、この男はしっかりと抱き止めた。 「どうして死のうというんです。これでもう、あなたは完全に私の物……もう離しなんかするもんですか」  いままでは、心ひそかに、あこがれていた男の唇——それもいまの麻耶子には、厭《いと》わしくてならないものとなっていた。     六  妖術師《ようじゆつし》の恋——それは何と恐ろしく不可思議な力を持ったものなのだろう。  麻耶子は、夫の謹一にも、恋人の水木|晉《すすむ》にも、体は許しておりながら、心の底は、決してのぞかせていない自信があった。  だが、この男だけは、全然それと違っていた。それは決して、自分の殺人の現場を、目撃されたという、弱点を持っているためではない。夢にまで、あこがれ、かわき切っていた、初恋の人の体の魅力ではない。  自分のすべての運命を、見通されつくしているという、得体の知れぬ力に対する恐怖であった。いつの間にか、相手が神秘な妖術を、身につけていたことに対する畏怖《いふ》であった。  たとえば、彼の二つの眼であるが——  長年の放浪生活に、くぼんだ眼窩《がんか》に光る眼は、まさしく蛇か蜥蜴《とかげ》か蝎《さそり》の眼。何度視線を外《そ》らそうとしても、いつの間にか、その中に吸いこまれて行くようになる。そして精神の統一を失い、神経がジーンと痺《しび》れて行くような、夢見るような気持となる。すべてを忘れて行動して、後で気づいてハッとするのだった。  麻耶子は痩《や》せた。憔悴《しようすい》しきった。  夫謹一が、不慮《ふりよ》の最期をとげたために、悲しみにやつれているのだろうと、人はみな、同情を惜しまなかった。その死因について、疑いを起こす者は、一人もなかったといってよい。  だが麻耶子は、朝鏡台に向かって、自分の美しい顔に浮かぶ、いまわしい暗い翳《かげ》を見るたびに、いにしえの蛇性の淫《いん》とは、こんなものだろうかと考えて、思わず目を伏せずにはおられなかった。  だからある朝、水木晉が、訪ねて来たということを、化粧の間に聞いて、麻耶子はギクリとしたのであった。  いつもより、ずっと濃く化粧を終わり、朝としては濃艶《のうえん》な衣裳《いしよう》をつけて、彼の待っている応接間へ通ると、ムッとするような煙草《たばこ》の臭《にお》いが鼻をついた。  灰皿には、半分吸いかけた十数本の煙草の吸いさし、よほどいらいらしていたに違いない。 「しばらくでした。奥さんもひどいですね。どうして僕と会っては下さらないんです」  噛《か》みつくような言葉である。麻耶子は、女の媚態《びたい》を見せて、話をそらそうとした。 「あなたはそうおっしゃるけどね。女の身として、未亡人になったばかりの時には、少しは身を慎しまないと、世間の口もうるさいものなのよ」 「そんなことをいったって、だめです。奥さんは僕に嘘《うそ》をついているんだ」  思いつめた男の態度に、麻耶子は乳のあたりに、氷の塊《かたまり》をあてられたような気がした。 「どうして、そんなことをおっしゃるの」 「奥さんは、あの予言者にだまされているんです。あんなルンペンみたいな男の、口車にまんまとだまされて、毎晩毎夜、逢引《あいびき》を続けているじゃありませんか」 「水木さん——」 「奥さんはあいつの言葉を信用しているんでしょう。過去現在未来と、すべてを見通して見せるという、嘘《うそ》八百にだまされて、亡者になってしまったんです。  奥さん、あいつが奥さんの日常生活の、どんな細かなことまでも、見抜いたようなことをいう、その原因が分かりますか……」  何かが耳の底でしきりに鳴っているようだった。麻耶子は思わず、両手で耳をおさえたくなった。 「死んだ御主人、謹一さんが、あの男にくわしい情報を提供していたんですよ。あいつは催眠術か何か、習い覚えて、ふしぎに人を信じこませる、力を持っているもんだから、うまく予言者に仕立てあげ、奥さんと私の関係が続けば、身の破滅だとおどかして、二人の仲を割《さ》くつもりだったんです。  その機会をうまく利用して、まんまとあいつは奥さんの心をつかんでしまった……」  ——でもあの男は、そんな予言なんか、しなかったわ。  そういいかけて、思わず麻耶子は固唾《かたず》を呑《の》んだ。この事件の、恐ろしい裏の真相が、この時はじめて、理解出来たように思ったのである。  ——夫はあの時、自分が予言者の所を訪れたのを知っていた。しかもそのことを話し出した時、口もとに軽い微笑を浮かべていた。何の敵意も警戒も、自分に抱いていなかった。  ——自分の日常の行動を、あの予言者が描き出したほど、精細に観察できた人間は、家の中にいる、人間のほかにあるはずはない。  ——あの人は、たしかにあの時、復讐《ふくしゆう》といった。その方法は、手段は、いったいどうしたものだろう。  チラチラと、頭に閃《ひらめ》く、思想の断片を追いながら、麻耶子はたちまち、恐ろしい推理を組み上げていたのだった。  ——夫が自分を、水木晉と別れさせるために、偶然彼を選んで、材料を与え、予言者の役割を、勤めさせようとしたとしよう。  だが彼は、それを絶好の機会と考えた。だから、水木と別れろという代り、自分が夫を殺す運命にあるなどと、催眠術的な暗示を与えたのだ。  もちろん、自分の心の中には、そのような意識がひそんでいなかったとはいえない。  しかし、あの時、夫が予言者という言葉を洩《も》らすまでは、その意識は、今ここで夫を殺そうというような、はっきりとした、殺意の形は持っていなかった。  彼は最初から、すべてを計画していたのではないだろうか。あの場にああして、現われたのも、夫と前から、しめし合わして……そういえば、夫がしきりに、途中で枯れ木の枝を折っていたのも、後を追って来る、彼に道を知らせたのではないか。  彼は自分の心の中に、恐ろしい毒草の種子を蒔《ま》いた。そしてそれが、胸いっぱいにはびこるのを、じっと見守っていたのではないか。  とめどもない、大粒の真珠のような熱い涙が、切れ長の眼から溢《あふ》れて来る。その一滴が、やわらかな手の甲にこぼれ落ちた時、ハッと手をひいた。  自らの手で、命を断った夫の血潮が、いま手の上に滴《したた》り落ちたかと思ったのだ。  水木晉が、それから何を話していたか、麻耶子は少しも覚えていない。  ただその胸に、どろどろの硫黄《いおう》のように沸《わ》き上がり、渦《うず》まき流れ、触れる者を倒さずにはやまない毒気を放って、炎々と燃え上がっていた天に冲《ちゆう》せん青白い炎——それは、かつての愛の数千倍、数万倍の激しさを持つ、妖術師に対する憎しみであった。     七  その夜遅く、麻耶子はそっと家からぬけ出して、あの妖術師《ようじゆつし》の住家を訪ねて行った。  広い焼け跡には、時ならぬ女の姿を見とがめるような人影もない。  今夜の目的には、絶好の場所であった。  かすかに赤いランプの光が、焼けたトタンの扉《とびら》から、一筋二筋、洩《も》れている。主《ぬし》はまだ眠りに入っていないのだろう。  どこにも自分を見ている者のないことをたしかめて、麻耶子はトントンと、扉を叩《たた》いた。  ギーッと軋《きし》って、開いた扉の隙間《すきま》から、麻耶子は中にふみこんだ。  ムッとするようないやな臭《にお》い。いつもながら、足の踏み場もないように、取り散らかしたガラクタの中で、予言者は一着しかないオーバーを着て、何か瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っていたらしかった。 「やっぱり、君だったのか。今夜あたりやって来るんではないか、と思ったよ。まあ、おかけ」  初めて会った時のように、黒《くろ》眼鏡《めがね》をかけて、春ももう夏に近いという頃《ころ》なのに、オーバーの襟《えり》をそばだてているせいか、その姿にはいつもほどの妖気《ようき》が感じられなかった。射すくめられるような、視線を浴びている気はしなかった。  ——幽霊の正体見たり枯尾花。はっきり理由が分かってしまえば、妖術なんかこわくないわ。  と、麻耶子は思った。 「いいんですの。立っている方が、わたくし今日は楽なんです」 「ずいぶん、今夜は遠慮しているんだね。まあ、いいようにしたまえ」  麻耶子は一歩踏み出した。 「兼作さん。今晩はわたくし、もう一度これからの、自分の運命を見ていただきたいの。はっきり申し上げましょうか。わたくしこれから、どうすればいいの」 「どうするって」 「あなたとの関係。水木さんとの関係。死んだ主人と、残った色々の問題、いったいどうしたらいいんかしら。わたくし一人では、判断も出来ないのよ」 「そんなに悩むことはないさ。僕はもうじきこの世の人ではなくなるんだ。死んでからまだ、君を縛りつけようとは思わない。僕のこの世の思いは、これでもう達せられたんだから、君はしばらくしたら、水木君と結婚して、幸福な生活に入りたまえ。世間の噂《うわさ》も七十五日、金もあるし、水木君は心から君を愛しているし、一生この上もなく幸福に暮らせるとも——」 「ありがとう。だがあなたが死ぬなんて、いや。死んじゃだめ。いつまでも生きていてちょうだいね——」  口と心はうらはらだった。この一言は、麻耶子の胸に、恐ろしい暗示となって襲いかかった。  ——この男が死ぬ。そして自分の罪の証人が、永久にこの世から消えて行く。自分はいつまでも、安心して幸福な生活がつづけられる……。  予言者は、自分の運命を知らない、とよくいうが、自分の死ぬことだけは分かったらしい。しかし、私が今夜、こうして殺しに来たのだとは、まさか気づいていないだろう……。 「お茶をいっぱい下さいね。歩いて来たら、わたくし喉《のど》がかわいてしまって……」 「ああ、いいとも……」  彼は何も気づかぬように、立ち上がって、麻耶子に背中を向けたのだった。  その刹那《せつな》、麻耶子の手には、用意して来た白柄《しらつか》の鋭い短刀が閃《ひらめ》いた。  既にその手に、人の血を血ぬった一度の経験を持つ、女の動作は早かった。  アッ、  かすかな悲鳴を洩《も》らしながら、彼の体は一たまりもなく、床の上へ倒れて行った。壁に積み上げた、本の山が、ドタドタと崩れ落ちて、見る間にその全身を埋めて行った。  麻耶子は、長い舌で、かわいた唇をなめずりながら、悪鬼の笑《え》みを浮かべていた。  ——手袋を使ったから、短刀にも指紋はついていないはずだし、短刀を抜かなかったから、返り血も体に浴びているはずがない。原の中では、物音を聞きつけた者もないだろう。  ひざまずいて、脈を握ると、最早《もはや》命はたえていた。左の背中から心臓の一突きによる即死であった。  ——さあ、これでいいはず、あとはそっとここから抜け出して……  だが最後の瞬間、何か手がかりになりそうな物は残っていないかと、麻耶子が部屋を見廻《みまわ》した時であった。その眼はテーブルの上の、一枚の角封筒に落ちたのである。  スタンプを押し、既に開封された手紙であった。だがその上に、書かれた宛名《あてな》は、  水木晉様  と、あったではないか。  憑《つ》かれたように、その側《そば》へ歩みよって、麻耶子はその封筒を取り上げた。裏をかえすと、黒崎一清と書いてある。  興奮に震える長い指先で、麻耶子は中の書簡箋《しよかんせん》をひき出して、吊《つ》りランプの、チラチラ動く、赤い灯にかざした。  それは長い、そしてこの上もなく、恐ろしい手紙であった。  水木晉様  あなたが私に、約束の不履行《ふりこう》を、お責めになる気持は、分からないでもありません。  だが私にいわせるなら、お約束の条件は十分に果たしていると思うのです。  第一に、私は柴田謹一氏から、麻耶子さんに予言を行って、あなたと麻耶子さんの仲を割《さ》いてくれ、と依頼があった時、そのことをあなたへお伝えいたしました。これは私の好意から出た行動であります。  第二に、あなたはその時、その最後の言葉を言わないで、麻耶子さんに、夫を殺すような暗示を与えてくれ。そして麻耶子さんの身に、危険が及ばないような方法で、その殺人が行われるように、計画を指導してくれ、と依頼されました。これも私は、お約束通りに実行したつもりでおります。  そしてその結果は、柴田謹一氏の断崖《だんがい》から転落惨死するという、事件となって現われました。  表面あくまで過失死であります。麻耶子さんには、何の疑いもかかりませんでした。これでも私は、お約束を守らなかったといえるでしょうか。  しかしはからずも、私はその時、柴田謹一氏に招かれて、その現場に居合わせたのです。氏の計画では、自分が予言者|云々《うんぬん》と言葉を出した瞬間に、私が忽然《こつぜん》と現われて、二人を祝福するような予言を口走るはずでした。  だが麻耶子さんは、その言葉を聞いた時、思わずいきり立ってしまったのです。自分が夫を殺すという、予言のことも、夫が知っていると思ったのでしょう。躍りかかって、謹一氏を、断崖の上から突き落としてしまったのです。そして私は、その殺人の犯行を、目撃するという機会に恵まれたのでした。  麻耶子さんを、獄舎へ送るのも、救い出すのも、私の舌一枚にかかっています。私はあの人に対する、生殺与奪の権を握ってしまったのです。  その権力を、私が自分の思うままに振るったという、あなたの非難は当たりません。  なぜかというと、あなたは御存じないであろうが、麻耶子さんは、むかし私と将来を約束しあった仲でした。  それが色々な家庭的な事情のために、横合からプイと現われた、謹一氏と結婚するようになってしまったのです。  当時、私は貧しい美術学校の生徒でした。だがそれ以来、私の人生を見る目は、まるで変わってしまいました。美といい、芸術といっても、この時の私に残された、灰一色の人生には、どれだけの価値をば持っているものでしょう。心魂を注いで私が描き上げた、麻耶子さんの肖像は、手もとに残されておりました。しかし、呼べど答えず、求めても腕に抱かれてくれない、ただの面影は、所詮《しよせん》私の嫉妬《しつと》と呪《のろ》いを、いやが上にもかき立てないではおきません。私はその画像を、ズタズタに破りすてて、果てしのない、放浪生活に入りました。  手品師の助手を勤めたこともありました。その時私は、催眠術を学びました。大道易者をしたこともあります。人相や手相の一通りで、お茶を濁《にご》すぐらいのことは、何とかやってのけられます。  変人の占師《うらないし》としての、私の評判を聞きつけた、謹一氏は、ある時私の荒屋《あばらや》を訪ねて来ました。  その顔を見た時、私は我が事成れり、と心ひそかに、歓喜の声を上げたのです。彼一人、手中の物とするぐらいは、私には朝飯前の芸当でした。  その結果は、あなたがいま、見られる通りの状態です。  快い復讐《ふくしゆう》でした。  むかし自分を裏切った恋人が、自分の手でその憎らしい恋仇《こいがたき》を殺し、私の力にふるえおののきながら、ふたたび私の腕に抱かれているのですから。  なるほど、私は自分に与えられた機会をば、十二分といっていいくらいに活用しました。あなたが思っていたように、事件が進行しなかったのは、お気の毒といえばお気の毒、しかし一面では、身から出た錆《さび》だったともいえるでしょう。  麻耶子さんは、永久に私の物です。  あなたが焦慮《しようりよ》のあまり、どんな行動に出られようと、それはあなたの御随意ですが、前後も弁《わきま》えずに、軽挙妄動《けいきよもうどう》をなさっては、麻耶子さんの身にも関わることになる、ということだけは、呉々《くれぐれ》も御忠告申し上げます。  恋と復讐の勝利者  森原兼作拝     八  麻耶子の全身は、はげしく吹きすさぶ秋風の中の枯れ枝の木の葉のように、いつまでも震えていた。  ——信じられない。とても信ずることは出来ない。  夫も、この妖術師《ようじゆつし》も、いやこれだけは信じ切っていた、恋人水木|晉《すすむ》まで、自分という、正直な、何の罪もない、一人の女をめぐって、このような恐ろしい、陰謀を企てていたのだろうか。  これからは、何をたよりに、この辛《つら》い苦しい人生を、生きていったらいいのだろうか。  目の前の、灰色の壁がクルクルと、水車のように廻転《かいてん》して、倒れて行くような気がした。床の地面が、ガバリと大きな口を開いて割れて、極熱の地獄の硫黄《いおう》の炎の中へ、自分の身を呑《の》みこんで行くような気がした。  ——何にもせよ、一刻も早く、この獄舎のような家の中から、この恐ろしい死体のそばから、遠くへ逃げ出してしまわなければ……  大きくゾッと身ぶるいをして、扉《とびら》を開けようとした麻耶子の背筋に、死人の手のようなつめたい物が走った。  ——この手紙は、どうしてここにおいてあったのだろう。  スタンプを押す前だったら、手紙がそれを書いた、本人の所にあるのは、決してふしぎなことではない……  だがこれはたしかに、一度|投函《とうかん》されたのに違いない手紙、宛名《あてな》の主に、配達されたはずの手紙であった。  宛名が違って、戻って来たのだろうか。まさか……  宛名の主が、その手紙を受け取った、水木晉が、それを自分で持って来たのだ……  どうして、何のためなのだろう……  いま一つ、麻耶子には、どうしても理解できないことがあった。  ——この手紙では、死んでも自分を離すまいと、決心しているあの男が、どうしてさっき、あきらめて、自分を水木晉に、わたすようなことをいったのだろう。  何かが、自分の予想も及ばない、何かがここで起こったのだ。  まさか、まさか、そんな恐ろしいことが……  しかし麻耶子は、その時心をかすめて来た、かすかな疑惑を、払いのけることは出来なかった。  残された、最後の勇気をふり絞って、麻耶子は死体の傍へ引っかえした。埃《ほこり》にまみれた、本をかき分け、俯伏《うつぶ》せに倒れた屍骸《しがい》を抱き上げた。そして何か怪しい力に魅せられてしまったように、その顔をじっと覗《のぞ》きこんだのであった。  違っている! その顔は、どことなく、いつも受ける感じとは違っている。  波のように揺れ動く、麻耶子の右手が触れたと思うと、黒《くろ》眼鏡《めがね》は、床の上へ飛んで行った。長い繊細な指先でガリガリとかきむしると、モシャモシャとした頭髪の塊《かたまり》は、屍骸の頭から離れて落ちた。バケツの水に浸《ひた》した、ハンケチの動きにつれて、男の顔の色は、見る見るうちに変わって行った。 「水木さん……」  つんざくような一声が、麻耶子の口から飛び出した。誤って手にかけた、恋人の骸《むくろ》を抱いて、この美女は、狂わんばかりに泣き崩れて行くのであった……  その翌日、その焼け跡の一角で、真新しく掘り返したらしい土を、鋭い爪《つめ》でかき立てながら、狂おしく鳴きわめいている、一匹の大きな黒猫があった。  通りかかった警官が、ふしぎに思って、その場所を掘り返すと、その下には、一人の男の絞殺死体が埋もれていた。  これが予言者、黒崎一清の死体だということはすぐに分かった。  だが、死体を発見して、急いで彼の住む、陋屋《ろうおく》に向かった警官の一隊は、その家でまた、一人の男の死体を発見した。  いや、彼等の驚きは、そればかりではなかった。  死体を抱いて、一人の女が坐《すわ》っていた。見なりからいえば、三十にはまだ間がある、若い女のように思われたが、その頭髪は、一本残らず、雪のような白髪《しらが》であった。その顔はまるで、六十の老婆のように見えたのだった。  女は警官隊の近づくのも知らず、空《うつ》ろな眼で、じっと灰色の壁を見つめて坐っていた。  その口からは、クツクツという笑いとともに、時折何か知れない、歌の断片が、とぎれとぎれに飛び出していた。  それはたしかに、シューベルトの子守歌の一節であった。  廃《はい》 屋《おく》  僕が迷信や、妄想《もうそう》に、捕われるような男でないことは、君もよく知っていることと思う。  いったい、妖怪《ようかい》や幽霊などというものは臆病《おくびよう》者が心の中で、自ら描き出し、自ら作った幻影に、脅《おび》え戦《おのの》く結果にすぎない、というのが、僕のたえて変わらぬ信念だった。そうでもなければ、僕もあの廃屋には、恐らく足をふみ入れることもなかったろうし、したがって、君にこのようなことを伝えるようになろうとは、全く思いもかけなかったのだが……  しかし今では、僕は自分の五官を信ずることができない。夢と現《うつつ》とは、いまやその境を越えて、たがいに入れかわり、僕は今まで不動と思っていた現実をも、信ずることはできないのだ。物質界の理法をはなれ、我等の常識を超越し去った、一つの世界が、あの窓から開いているのではないだろうか。  こう書いたところで、僕が気が変になったのではないかと、よけいな心配だけはしないでくれたまえ。もろくはかないものには違いないけれど、僕の精神にも、それを宿している肉体にも何の異常も感じていない。下宿の小母さんなど、僕のそぶりがおかしいなどと、このごろよけいな心配をしているが、僕にいわせれば、自分たちの方がかえって、どうにかしているのじゃないか、といいたくもなる。しかし君なら、あるいは分かってくれるのではないだろうか。こう思って、僕はこの手紙を君にあてるのだ。笑わずに、最後まで読んでくれたまえ。  君はあの廃屋を知っているだろう。この町の高等学校の哲学の教授が、好んで逍遥《しようよう》したというので、僕たちが『哲学の道』と呼んでいた、この流れに沿った小道のあたりの、あの物さびしい廃屋なのだ。  桜の雲が、流れに薄紅《うすべに》の影を落とし、春風にさそわれた、その花びらが音もなく、水面に散りかう春の夕べは、そよ風に頬《ほお》をなぶらせ、団扇《うちわ》片手に涼を追って、蛍の光の点滅するのを眺めた夏の宵涼みに、黄や紅《くれない》に色づきはてた病葉《わくらば》の、舞いおりて来る秋の日に、そのあたりの興趣は、しばらく僕の足を止めてやまないものがあったのだが……僕があの家を訪れて、一夜をめで過ごしたのは、二、三日前、仲秋明月の夜のことだった。  君もおぼえているだろうが、あの夕方の太陽は、僕が今まで見たこともないほど真赤な色だった。何十万人という人の鮮血をしぼりつくして、何度も何度も、蒸《じよう》溜《りゆう》しつづけて、最後に残った一滴を、一刷毛《ひとはけ》なすりつけたなら、あんな色になるのじゃないか……  そう思われるほどの真紅《しんく》の夕日だった。その光を受けて、灰色の岸の岩肌さえもまた、赤紫に輝いていた。御影石《みかげいし》の岩にふくまれた、石英の一粒一粒が、ルビーの砂をまきちらしたかのごとく、僕の眼に、赤い光と影をきらきら投げかえした。  秋の夕《ゆうべ》の鰯雲《いわしぐも》も、緋色《ひいろ》と朱色と鴇色《ときいろ》に染められつくしていや高く、その夕映えをうつしている、流れのしずかな水面も、上気したような紅に染められていた。かすかにかすかに、立ちのぼって来る夕霧は、焔《ほのお》と燃える火の河から、吹き上げて来る、灼熱《しやくねつ》の蒸気かと思われるばかりであった。  しかし、子供の流す笹舟《ささぶね》さえ、あの廃屋のあたりまで来ると、急に方向を変じて必死に向こう岸へ流れつこうとしていたのだ。その辺までは、水面を滑って、舟のあとを追いかけて来た赤《あか》蜻蛉《とんぼ》も、あの家に近づいたと思うと羽をひるがえし、舟からはなれて高く虚空《こくう》に舞い上がった。  そのかわり、あの付近には、物すごい蚊柱《かばしら》が、いくつもいくつも渦《うず》まいていた。近づくにつれて、その群舞をかき乱された、蚊の群れは、前からも横からも、何十匹何百匹となく、私の顔にも手にも襲いかかった。払ってもはらっても、入れかわり、立ちかわり、むらがりついて来るその流れ。僕はこれまで、あれほどの蚊の大群には、一度も会ったためしがない。  流れをよぎって、かけられている木の橋も、ほとんど腐りきっていた。人一人、わたす力も残っていないようにさえ、思われるくらいであった。  青い苔《こけ》と、白い不恰好《ぶかつこう》な茸《きのこ》の、一面に咲き出している細い丸木は、私の足下で軋《きし》みしなっていた。靴底にふみにじられた、いくつかの茸の流し出した粘液は、私の靴を滑らせて、私の体を深い流れの底へ、誘いこもうとしていたのだ。  何年か、人の出入りをとざしていた、野茨《のいばら》の茂みの中に、半ば崩れた門柱の、二本の赤煉瓦《あかれんが》の残骸《ざんがい》が立っていた。風も雨も、他の場所よりは、もっとはげしく、速やかに、この家を責めつくしていたのだろうか。  漆喰《しつくい》は白い粉を吹いて、もろく煉瓦にこびりつき、軽く一押ししさえすれば、いまにも僕の足もとに、千々に砕けて散ろうとする。  茨の中に咲く野薔薇《のばら》、その美しい一輪は血に染められた斜陽の一滴が、地上にしたたり落ちて、砕け開いたように、私の目にはげしく焼きつく。  この夕《ゆうべ》、地上の基色はすべてみな、赤一色であるのだろうか。  そういえば、繁みを蔽《おお》う銀色の繊細な巣の中央に、八本の細長い肢《あし》を横たえて、座を占めている、女郎|蜘蛛《ぐも》の色さえ、血のような紅——しかもその蜘蛛もまた、眠れるごとく、肢一本、動かそうとはしなかった。  このまわりは、清らかな流れをめぐらしやわらかな山の連なりに抱かれた、物しずかな一帯の住宅地とは、切りはなされた、一つの別天地かと思えた。そのあたりは、たしかに空気もよどんでいた。おそろしい瘴気《しようき》といわんばかりであった。手入れせぬ庭に、人の背丈を越えて、すさまじいばかりに高く生い茂る、雑草の放つ狂わんばかりの草いきれが、この草叢《くさむら》に人知れず、屍《しかばね》を埋めた小動物の屍臭《ししゆう》と混じて、このような重苦しい、妖気《ようき》をただよわせているのだろうか。  何となく、僕の五官は、物憂《ものう》いしかし快い、放心状態にさそわれて行ったが、頭脳の働きだけは、決して麻痺《まひ》していなかった。僕はその瘴気《しようき》を払いのけようと、二度三度、目の前の空気を大きく手ではらって、あの家をじっと見つめたのであった。  流れを隔てて対岸から、この家を眺めて通りすぎたことは、これまで幾度もあったのだが、この橋を渡って家を目の前にしたことは、いままで一度もなかったのだ。  二階建て、古い、だが宏壮な建築だった。英国の荘園などに見るような、傾斜の急な大屋根と、鋭い破風《はふ》を私は見た。鼠色《ねずみいろ》の薄いスレートは、一枚一枚と、いつの間にか滑り落ち、所々に透《す》いて見える、屋根の地肌がいまにもまた、口を開かんとする古傷のように、いたましく、かつ物すごいものだった。  窓ガラスも、一枚として、完全でない。破れ砕けて、失われた窓枠の中に、灰色の壁を一面に、深く蔽《おお》いかくし埋めた、蔦葛《つたかずら》が、貪婪《どんらん》な吸血動物の触手のように、所きらわず忍びこみ、姿をかくして這《は》いまわり思いもかけぬ所から、ふたたび顔をのぞかせていた。  その時は、既に夕陽《ゆうひ》も、西の山の端に沈みきって、黄昏《たそがれ》時の灰色が、この廃屋をしずかに包みかくして行った。まぼろしの霧あやかしの影、そしてほのかな憂愁《ゆうしゆう》が、この家に深い陰影をいつとはなしに刻みこんで行くのであった……  僕がこの家を訪れたのは、もちろん仔細《しさい》があってのこと。二、三か月前、この家で郵便配達夫が、首を吊《つ》って死んだ事件は、君もまだおぼえていることだろう。  このあたりを、配達に歩いていたのが、突然行方不明になって、日頃《ひごろ》は真面目《まじめ》一方で、何一つ間違いのなかった男のことだったし、ことに書留なども、身につけていたことだったので、警察の神経を、非常に刺激したのだが、遂にこの廃屋の二階の梁《はり》から、紐《ひも》をぶら下げて、縊死《いし》しているのが発見されたのだ。行嚢《こうのう》も肩にかけたまま、その内容にも、何の異常もなかったので、警察では、何かの拍子で、精神に異常を来たして、自殺したものと断定した。  しかしその事件で、最も打撃を受けたのは、誰《だれ》よりもその家の持ち主であった。この家はもともと、ある医者の別宅だったが、むかしから、何故《なぜ》か人のいつきが悪くってここ数年の間は、誰《だれ》も買手も借手もなかったのだ。  そこへこういう事件が起こり、またまた悪い噂《うわさ》がひろがっては、一層処分も困難になる。彼は事実によって、悪評を一掃してしまう以外に、方法はないものと考えた。  この世にこわい物はない、と日頃高言しておった、前科四犯のやくざ者が、莫大《ばくだい》な賞金をかけられて、しばらくこの廃屋に、移り住むこととなった。その女房の、前科三犯の肩書を持つ、女やくざも一しょだったが、このように、神も仏も、人の世の法律さえも、すべてを蔑視《べつし》し嘲《ちよう》笑《しよう》して、人の命を絶つことさえ、何とも思わなかった二人にも、この家の空気は、堪《た》え得るものではなかったのか、彼等は三日目にここから逃げ出して、家主の再三の頼みにも、首をふりつづけ、二度とこの家に足をふみ入れようとはしなかった。  それでは何が、彼等をそれほど震えおののかせたのだろう。はっきりとした答えは、全然得られなかった。  もちろん何か、怪しい物怪《もののけ》の姿を、恐ろしい幽鬼を見たというのではない。何の形もとっていない、茫漠《ぼうばく》とした妖気《ようき》が、たえず彼等のまわりにつきまとい、いずこともなく、吹きつけて来る隙間風《すきまかぜ》に乗り、足下《あしもと》に軋《きし》る階段の闇《やみ》にひそんで、彼等の足を、この家から駆り立てたのでもあろうか。  僕がこの廃屋を訪れたのは、そうした動機からだった。家主に会って、その話を聞き、流れの向こうにそびえ立つ、物さびしい家の持つ、異様な雰囲気《ふんいき》に、心の動いたためなのだった。  僕は嘗《かつ》て『恐怖』というものの存在を知らなかった。君もよく知っての通り、柔道も三段、剣道も二段の腕前だったし、健康状態にも、何の異常もなかったのだ。  だが僕は、この時までに、あらゆる刺激を味わいつくし、もはや心を興奮させ、魅了させてくれるものは、この世に残されていないのではないかとまで、感じあきらめていた。ひょっとしたら、初めて味わえるかも知れない『恐怖』の感が、僕の心を、初めて恋を知り初めた、乙女のように、この廃屋へ引きつけて行くのであった。  鍵《かぎ》も錠《じよう》も、かかっていない入口は、かるく軋《きし》んで、手応《てごた》えもなく、僕をその中へ迎え入れた。どんな廃屋にも付き物の、埃《ほこり》っぽいだが何となく、甘ずっぱい匂《にお》いが、強く僕の鼻を打つのだった。  灯火を掲げて、階下から階上へ、僕は一部屋一部屋と巡歴をつづけた。階下の中央を走る、広い廊下と、入口近くの一部屋はいくらか人気《ひとけ》の跡をとどめていたが、その外《ほか》のすべての部屋を包むものは、すべて『時』という破壊者が、たえずこつこつと刻みこんだ、『沈黙』の烙印《らくいん》から立ちのぼる呼吸さえ苦しくさせる、いまわしい瘴癘《しようれい》の気であった。  障子も襖《ふすま》も、嘔気《はきけ》をもよおさせるようなむっとした黴臭《かびくさ》さを発散し、壁という壁には一面に、雨洩《あまも》りが汚染をしるし、鼠色《ねずみいろ》から、うすい黒へと変色して、二段にも三段にも、奇怪な模様を残していた。ただ一間玄関近くの部屋にだけ、敷かれていた畳さえ、湿気をいっぱい吸いこんで、不恰好《ぶかつこう》に波打ち、ふくらんでいるのだった。生命は針の尖端《せんたん》ほどの残渣《ざんさ》さえ、この廃屋の中にとどめていなかった。  どこからともなく、さびしい犬の遠吠《とおぼ》えは聞こえて来たが、いつもなら、うるさいほどに耳につく、草間の虫のすだく声も、ここへは響いて来なかった。懐中時計のセカンドを、刻む音ばかりが、いつもの百倍千倍に、高く耳の底に響き入り、すべてのものを支配する、死と沈黙の調べの中に、ただ一つ、生きて動いているのだった。  襖には誰《だれ》の筆になるのか、誰が切りぬいて貼《は》りつけたのか、一匹の黒猫の絵が残されて、光る眼でこちらを睨《にら》んでいたのだった。所詮《しよせん》描かれた絵には過ぎぬというものの、僕が正面から、横手の方へ座を移しても、その視線はたえず、僕の跡を追って全身にからみついた。見上げても、見下ろしても、その眼は、僕から離れようとはしなかった。  静かに時は過ぎて行った。だが何も起こりはしなかった。それがかえって、無気味なのだ。気持が虚脱されたよう、五官が痺《しび》れて行くような、異様なその場の空気であった。しかし頭は反対に次第に冴《さ》えて来るのだった。決して暑い夜ではなかった。一歩戸外へ足をふみ出せば、仲秋の名月が、中空に皎々《こうこう》と輝きわたり、爽涼《そうりよう》の秋風が空をわたっているはずだが、ここの空気はどんよりと沈みよどんで、僕の呼吸もともすれば早くなった。  脈を測っても、いつもより不規則だった。いつの間にか、喉《のど》の奥が、からからに乾《かわ》いて痛み出していた。何かの用意にもと思って持って来ておった、ウイスキーの角瓶《かくびん》をとり出して、グラスに一杯二杯と傾けたが、全然酔いは感じない。息苦しさは、いくらか楽になったとはいえ、手足の節々がいつの間にか、痺《しび》れきって行くような、物憂《ものう》さがどこかに残っているのだった。  時はもう十二時を大分過ぎていた。いっそのこと、髪をおどろに振り乱し、色青ざめた女の幽霊や、一つ目小僧、三つ目小僧が、鬼火とともに現われ出たら、持参の赤樫《あかがし》の木刀に、物をいわせることも出来ようものを……  前の留守番が逃げ出したあとに、布団《ふとん》はそのまま残っていた。眠くはないが、しばらく横になっていようかと、洋服を着たまま、薄い夜の物を、冠《かむ》って床に入ったが、一向《いつこう》何という気配もない。いざとなったら枕《まくら》を蹴《け》って飛び起きるつもりだったが……  一時——僕はその時、布団の上から、胸のあたりを、何かがなで廻《まわ》しているような圧迫を感じた。それはたとえば、人間の手のようなもの、いや水母《くらげ》か章魚《たこ》の触手のように、そろそろと、微妙な触覚を楽しむように、それは寝ている僕の胸の上から、腹のあたりへ蠢《うごめ》きまわる……  瞬間、僕は枕を蹴って飛び上がった。その刹那《せつな》、何かしら、生あたたかい、ねっとりとしたものが額に触れたのだ。その感触は……何といったらよいのだろう。  たとえば器《うつわ》に、なみなみとたたえた人の血の中に、浸《ひた》した手に乾《かわ》かぬうちに触ったならば、その時の感じに近くはないだろうか。と思われるほど、べっとりとした、生ぐさい、ほのあたたかい感じであった。  もしこれが手だったならば、胴体は恐らくこの辺についていよう——僕は赤樫《あかがし》の木刀を鋭く宙に一閃《いつせん》した。だがそれは、空《むな》しく虚空《こくう》を切ったのみ……何の手応《てごた》えも、感じられない……  だがそいつはたしかに動いていた。生きていた。どこからともなく洩《も》れて来る、そいつの息吹きを感じていた。さらさらという衣《きぬ》ずれの音が身近に聞こえたと思うと、枕《まくら》もとのランプがたちまち畳の上を離れ、空中高く舞い上がった。二、三度大きく、宙に揺れて、動いたランプは、やがてすぐ目の前の高さに停止してしまった。  その光は、いつの間にか、月光のようなつめたい青白い色に変わった。燃えているのは石油なのか。や、それは、三途《さんず》の川のほとりに光る、死人蛍の光ではないか。  ランプのまわりには、微《かす》かなかすかな燐光《りんこう》を放つ、青白い霧に似たものが、ただよっていた。水気をおびて、ちらちら揺れている幻《まぼろし》は、人間の手が、ランプをつかんで、空中にかざしているかと思われた。  その灯《あかり》は、静かに空中を滑って行った。いつの間にか、開いていた、襖《ふすま》の隙間《すきま》を潜って、廊下へ姿を消して行った。僕もすぐ木剣を握りしめて、その後を追ったのだが……  廊下に出ると、ランプの火は、消えるともなく消え失《う》せた。無理に吹き消したようではなく、油が絶えたような、自然さで……しかし油は、たしかに一杯入っていたはずだった。  火が消えても、ランプは運動を止めようともしなかった。階段の上の大きな天窓からは、月の光が射しこんで、廊下は一面白銀色の光輝《こうき》に満たされていたのだった。その中を、静かに、静かに、ランプは階段の方へと虚空《こくう》を滑って行った。  僕も思わずその跡を追わずにはいられなかった。何か知れない、目に見えぬ力が僕を惹《ひ》きつけたのだ。  ランプから、二、三メートルの隔りを置いて、僕は階段を上って行った。ランプの動きも滑らかでなく、一段一段と、わずかな休止をおいていた。足もとに、階段の板はしきりに軋《きし》ったが、その外《ほか》には、誰《だれ》の足音も耳に聞こえて来なかった。  ランプはふたたび、静かに二階の廊下を滑って、やがて三つ目の右手の部屋の、扉《とびら》の前に停《と》まったのだ。音もなく、部屋の扉が開いたと思うと、ランプはその中に姿を消した。僕もすぐ、その跡を追って、その部屋に踏みこんだ。  部屋の壊れた、窓ガラスを透《す》かして、日光が燦々《さんさん》と、室内に射しこんでいた。窓の上にからみついている、一枚の蔦《つた》の葉が、大きな影を床に投げ、風にそよいで、ちらちら動いているばかり、室内には、物の気配も感じられなかった。  ランプは窓縁の上に置かれていた。天井板は、何枚も何枚も、破れ去って、天井裏の暗闇《くらやみ》が、大きな口をのぞかせていたが、その中から、一本の麻縄《あさなわ》が垂れ下がっているのに、僕は気がついた。そしてその下の端は、一つの大きな環に結ばれて——僕の背より少し高いが、その下には、小さな踏み台さえ用意してあった。  僕はやがて、その紐《ひも》のまわりに、またあの青ざめた、燐光《りんこう》のような幻影が、ただよっているのに気がついた。それも今度は、たしかに二つ、左右対称のその幻《まぼろし》——まるで人間の両手のような……  その紐の下の環は、静かに丸く開いていった。そしてその中に、丸窓を透かして、戸外を眺めるような、不思議な光景が展開された。  初めは、青い月光が、その中を通して眺められただけだが、やがてそれも、真珠の光沢を帯びた、霧の幻に包まれた。そしてその、霧が跡なく晴れた時、僕はその中に、いま一つの世界を垣間《かいま》見たのだった。  そこは、春の日ざしのうららかな、かぐわしい花園だった。見わたすかぎり、一面の白薔薇《しろばら》の床、真紅《しんく》の麝香薔薇《じやこうばら》の花、支那《しな》の美人を思わせる濃艶《のうえん》な緋牡丹《ひぼたん》、王女のような白牡丹、崩れんとする大輪のカーネーション、黄色の水仙、濃紫《こむらさき》の菖蒲《しようぶ》、そしてその上に散りかかって来る桜吹雪——  空は紺碧《こんぺき》に晴れわたり、雲雀《ひばり》ははれやかに歌いつつ、縦横に花園の上を飛び廻《まわ》る。蝶《ちよう》も蜂《はち》も甲虫《かぶとむし》も、僕等の見慣れているものよりはずっと大きく、その体の色も、虹《にじ》の七彩《しちさい》を、ちりばめたように、うららかな陽光に照りはえていた。  人はみな、そこでは清純な、塵《ちり》一つとどめない、白衣をまとって動いていた。男も女も晴れやかな、苦悩の跡も見えぬ、喜悦と歓喜に満たされて、青春の幸福を、心から楽しみつくしているようだった。  いまも小川のほとりの、薔薇《ばら》の茂みのかげで、若い男が美しい女を胸に抱いている。長い接吻《せつぷん》であった。女はかるく目を閉じて、男のなすままに任せていた。いつの間にか、上半身を蔽《おお》っていた、白衣が音もなく、滑り落ちて、雪をあざむく豊満な肌が、遠目に望まれた。  その時僕の眼前を、しずかに通りすぎようとした、一人の若い女性があった。  いつかどこかで、たしかに会ったことのある、その面影、意識下に埋もれ、記憶の及ばぬ所に逃れ逸し去って、しかも忘れ得ぬその眼差《まなざ》し、僕は吸いこまれるように、顔を乗り出していた。  女はこちらへ向き直った。両方のすみの高く切れ上がった角額、形のよくととのった高い鼻、卵形の顔の輪郭《りんかく》、やわらかな眉《まゆ》、漆黒《しつこく》の双眸《そうぼう》……いつまでも、僕は記憶の糸を追いつづけた。そして一瞬、僕の脳裡《のうり》に閃《ひらめ》くものがあったのだ。  母は十年前に死んでいた。その時は既に齢《よわい》も四十をすぎていたのだが、胸の病《やまい》に侵されて、半年の間病苦と闘いながら、世を去った母の死顔は、白蝋《はくろう》を刻んだように端正だったが……もしあの顔を二十年前、少女の時代にかえしたら……  ——お母さん  僕ははげしく叫んでいた。僕の目は、いつの間にか、熱い涙に濡《ぬ》れていた。  その声が聞こえたものか、女は一歩また一歩とすぐ目の前に近づいて来た。今はその熱い息吹きを、顔に感ずるかと、思うばかりの距離であった。  やがて女は語りはじめた。ひくい、かすかな、地の底から、聞こえて来るかと思われるほど消え入るような、囁《ささや》きだった。  ——わたくしは、あなたのお母さんではありません。お母さんと別れて十年、その恋しさが、あなたにわたしを見あやまらせたのでしょう。この国は、まだあなたのおいでになるような所ではありません。お帰りなさい。いつかまた、お目にかかる日もありましょう……  女はやさしくほほえんでいた。モナリザの微笑のような、怪しい魅力をたたえつつしずかに私の眼前から、ふたたび彼方へ遠ざかった。  いつの間にか、花園には、ふたたび白い霧がたちこめて来た。薔薇《ばら》も牡丹《ぼたん》も水仙もすべてその狭霧《さぎり》の中に溶けこんで、ただその幻《まぼろし》の中に最後まで浮かぶものは、ただあの怪しい微笑であった。  耳の近くで、何かの落ちる音がした。手にしていた、赤樫《あかがし》の木剣が、いつしか床に滑り落ちた。眼を開くと、部屋には一面の月光が……僕の足は、その踏み台をふみ、首はその輪の中にあった。  さっき僕が家中を見廻《みまわ》った時には、こんな紐《ひも》など、たしかに天井から下がってはいなかった。  そしてまた、あの配達人が首を吊《つ》って、死んだのも、たしか二階の一部屋と聞いてはいたが……  僕はその時、生まれてはじめて、『恐怖』の感に襲われた。水を頭から、浴びせかけられたように、奥歯がひとりでにガタガタ震え出すのであった。わななく手を首のまわりに上げて、しずかに下の輪を外《はず》すと、よろめきながら、僕は踏み台をとび下りた。そして後をも、ふり返らず、この恐ろしい部屋から、逃げ出した。  入口から飛び出した僕は、泳ぐように茂みを分けてつっ走った。気を狂わさんほど青白い月光を浴びた、廃屋の大きな影は、地獄のように黒かった。追われるように、橋をわたり、流れの手前の道の上を、僕はどこまでも走りつづけた。  黒い影法師は、手をふり、足をふりながら、僕に先廻《さきまわ》りして目の前の道に踊っているのであった。  君、これがこの一夜の僕の記録であった。だが——僕はこの経験を、決して後悔していない。生まれて初めて知った恐怖感、戦慄《せんりつ》感、それこそ何と甘美なものであろうか。  酒も女も冒険も、この魅力と興奮に比べたならば、それははかない朝顔の花にも似た、一時の刺激にすぎないのだ。  恐ろしい——しかし楽しい。僕の拙《つたな》い筆の力では、この心境の十分の一をも、伝えることは出来まいが、いつかは君も分かってくれるに違いない。  真の歓喜と悦楽は、恐怖と戦慄《せんりつ》のうち以外には、求めることはできないのだということを。  私が友人、橋本陸朗の手記を受けとったのは、どうしたことか、日付よりも一月も遅れてのことだった。  私は早速彼の下宿を訪れて見たが、彼は十日ほど前に、家を出たきり、帰って来ないという返事であった。  ふたたび、あの廃屋が捜索された。  そして私たちは、二階の一室の梁《はり》に、首を吊《つ》って死んでいた、彼の惨《みじ》めな姿を発見したのである。  医師はその死亡の日を、死体発見の三日前、彼が初めてこの廃屋で、一夜を過ごしたその次の満月の夜と判定した。  そして今度も警察では、彼の死を、精神に異常を来たした末の自殺と、断定したのであった。  氷の花     一  夏だというのに、その患者は妙な病気にかかっていた。  しもやけなのだ。両手の指が、まるでたらこのように赤くぶつぶつにふくれ上がっている。 「山へでもいらっしゃったんですか?」  理由がちょっと思いつかなかったうえに、間違いっこない症状だから、殿村《とのむら》俊一は、眼を上げてふと、第一印象をもらしてしまったが、五十にも近く、分別盛り男盛りの、冒険など好みそうにもない学者タイプの相手の顔を見て、そのまま言葉をのみこんでしまった。  相手はかるく苦笑を浮かべ、 「不注意でしてね。よく気をつけてはいるつもりでしたが、ふと研究中にしくじりまして……」 「研究中……」  殿村博士は眼をふせて、上野義明、四十八歳——という名前と年齢とを読みとると、 「何の御研究です」  と、敬意をこめた調子できいた。 「低温実験——御承知でしょうが、金属は低温度になりますと、いろいろ性質がかわって来ます。戦争中には兵器や航空機材料などの耐寒性の研究を、それから戦後には油や食料などの低温実験をつづけて来ました。毎日零下十何度から二十何度という生活で……暑さ知らずですが、外に出て来ると、五十度も温度の差があるんでのぼせ上がります」  学者らしい、一本調子な返事だった。たしかに、さっき眼をみたときから、年に似あわぬ偏執狂的な、執拗《しつよう》な、食い入るような光があると思ったが、学者という人種には、おうおうにして見られることだ。殿村博士自身の知合いにも、こうした眼と性格の持ち主は、ほかにも何人となくいたのだ。 「それはどうも……すぐお手当てをいたしましょう。でも繃帯《ほうたい》をしますと、四、五日お仕事はおできになりませんね」 「かまいません。スイッチさえ入れて、モーターを動かしておけば、何日でも、何十日でも、何年でも、同じ温度に保っておけます」  何年でも——というのは、少し大げさないい方だと思ったが、深く気にもとめず、指に薬をぬりながら、 「研究は大学かどちらかで、それとも……」 「家に研究室を——小さなものですが、持ってます」  何げないような返事だったが、博士はびっくりしてしまった。  研究といっても、物によりけりである。自然科学の研究というものは、実験設備がたいへんだし、それだけ費用もかさんでくる。小さな化学実験や生物学の実験ならばともかく、自宅に低温実験室まで作って、夏でも零下何十度という温度に保っておくというのは、道楽だけではできないことだ。 「たいへん、御奇特なお話で……先生のように、恵まれない、そういった基礎的な学問に、何十年もとっくんでおられるお方がなかったら、日本の科学の水準も上がりませんね。でも、そんなに、低温実験ばかりおやりになってては、御夫婦仲も冷たくはなりゃしませんか」  その前の患者が女で、ヒステリーみたいに、さんざん夫の愚痴《ぐち》をこぼしたあとだったので、殿村博士もつい、自分より年上のこの患者をつかまえて、こんなことを口に出してしまった。  そのとき、上野義明が眼をあげて、遠い地平線の彼方を見つめるような、何ともいえぬ、夢心地の表情を浮かべたのを殿村博士はいつまでもおぼえている。いままでは、氷のようにつめたかった、きびしい表情が一瞬に、春のようななごやかさにかわったのが、殿村俊一の心に強い印象を投げかけたのだ。 「低温というのは、私の恋人のようなものですよ。妻は二十年前に死にました。人は死に、時は流れ、世の中はかわり——ただ永久に変わらない真理、不変の姿というものは、私たちのあこがれている科学の中にひそんでいるんじゃありませんかねえ」  科学者として、りっぱな尊敬に値《あたい》する一言だった。しかし殿村博士はあの事件の起こった後、この言葉を別の意味で、身のひきしまるような感じとともに思いおこさずにはいられなかったのである。     二  大学を卒業して十年、三十四歳で博士といえば、途中戦時中に友人の多くが軍医として出征したり、腕が鈍《なま》ったりしたことを思うと、それほど恥ずかしい成績ではなかった。大学を出るころ、呼吸器の病気を患《わずら》っていて、兵隊には行けない、しかもふつうの生活にはそれほど支障もないという健康状態だったのが、かえって彼の一生には幸いしたのかもしれない。父のずっと経営している、東京郊外のK町の医院へ、副院長で帰って来て、幸いに患者のうけも悪くはなかった。若いに似あわず、あの先生はしっかりしているという評判も立った。  そうなって来ると、老院長夫妻の次の心配はきまっていた。姉が一人、とっくにほかにかたづいていたので、初孫の顔を見たいから——というわけでもなかったが、あれやこれやと、機会があるたびに、たえず写真を持ち出しては結婚をすすめた。  どの縁談にも、殿村俊一は首をふった。もちろん経済的にも肉体的にも、不能力者であるはずはない。女ぎらいというわけでもない。医者という職業は、あまりに女体というものを、すみからすみまで知りすぎているので、女性——ひいては結婚というものにふつうの人間の感ずるような、神秘な魅力を感じないのだという説もあるが、彼自身は、べつにそうとも思っていなかった。  最大の理由は、踏みきりがなかったということにあろう。生まれつき、消極的な性格が、彼の心を容易に燃え上がらせないのだ。現在の、両親と妹たちとの平和な生活を、結構楽しんでいたために、自分から積極的にこの環境をかき乱す意欲も起こらなかったのだ。  だが、医者にも科学者にも、恋は芽生えることがある。キューピットの悪戯《いたずら》な弓の矢は、氷のように冷徹な胸をも見のがしはしないのだ。  上野義明が、最初しもやけの治療にやって来て、それが全快してまた姿を見せなくなってから、二か月ばかりたって後、殿村博士は近くの斎木《さいき》弁護士の夫人のところへ往診に呼ばれて、またそこで上野義明に出あった。  玄関|脇《わき》の洋間で、主人の弁護士と話しているこの科学者の姿が、眼にうつった。夫人の病室は、その洋間の隣だったし、何かの拍子で、間の扉《とびら》が少し開いていたので、この二人の会話がとぎれとぎれに耳にはいった。 「時効というやつはその刑の重さによってきまるんだよ。たとえば最高死刑にあたる罪——これは殺人、強盗殺人、強姦《ごうかん》殺人、放火殺人など……この時効は十五年……最高十年の懲役刑にあたる罪……たとえば窃盗《せつとう》などは七年……犯罪が行われてから、これ以上経過すれば、検事は起訴できない」  斎木弁護士のほうは、甲高《かんだか》いよく通る声だが、上野義明の声は低く、何と答えたのかききとれなかった。 「そうだとも……もちろん刑事上の責任をのがれる。犯罪には問われないというだけで、民事上の問題——たとえば損害賠償などはまったく別だ。うん、どんな証拠が発見されても、刑事問題にはならないのさ」  夫人の病気は、かるい胃潰瘍《いかいよう》だった。これまでに何度も診察しているので、勘所《かんどころ》はわかっていた。博士は、夫人に注射しながら、この会話をちょっと不審に思った。弁護士が法律問題を論ずることはべつにふしぎはないことだが、その相手が、およそ低温科学以外には、日常世間の事柄に何の興味も持たないような、科学者であることがおかしかった。 「お父さま……お父さまはいらっしゃる?」  庭から、すんだ女の声がした。赤いセーターを着た、まだ二十《はたち》にもならないような娘がそこにたっていた。生垣《いけがき》の間をぬけて、急いでやって来たのだろう。素足にサンダルをひっかけて、赤いセーターに映える腕の白さが妙に新鮮に眼にしみた。  きれいな子——後ろからだきしめたら、淡雪のかたまりのように溶けてしまうのではないかと思えるような華奢《きやしや》な色白な体つき、セーターよりも赤い唇から、ちらりとこぼれた真っ白な歯なみ……食べてしまいたいくらいにかわいかった。 「雪子か。いまゆく」  洋間のほうから声がきこえ、眼の前の陽《ひ》あたりのいい廊下に上野義明が出てきた。 「ああ、先生……」  と殿村博士のほうへ腰をかがめて、廊下にたったまま雪子と何か二言三言ささやきかわしていたが、 「先生、お邪魔しました。また、うかがいます」  洋間のほうに声をかけて、そそくさと庭を横切り、生垣の間から隣の家へはいって行った。 「ごめんなさい、おばさま」  といいのこした声が、いつまでも耳にのこってはなれなかった。ふと何げなく眼をあげると——これが問題の低温実験室なのだろう。ほとんど窓もないような鉄筋コンクリートの建物が一棟《ひとむね》庭に立っているのが見えた。     三  それから三、四日して、かるい気管支カタルを患《わずら》った雪子が、殿村医院を訪ねて来て博士の診察を受けたことから、二人の交渉は次第次第に深まっていった。  めったに女の体などに魅力を感じたことのない博士も、雲母《うんも》をとかして皮膚に沈めたような、かがやく女の肌には眼を見はった。彫刻のような造型美と、日本人の女だけが持つ触感的な肌のねっとりとしたなまめかしさとが、類《たぐい》もないような香気を全身から発散させていた。  三度、四度と診察が回を重ねるにしたがって、博士の恋情は高まっていった。  病気の全快するということに、医としてあってはならない未練さえ出て、いつまでも病気のままで、自分の手にかかってくれたら——と、かすかな溜息《ためいき》が出たくらいであった。  しかし、病気が治っても、二人の交渉はやまなかった。私鉄のO線とK電車の乗り替え駅のあるこの町に、名曲とコーヒーの店、キャスリーンが出来たのをきっかけに、二人は毎晩のようにその店で顔をあわせた。  夜ごと七時に——二人のどちらともなく、言い出すともなく始まった。  静かな愛情の表現だった。  恋人同士のようにテーブルをはさみ、一杯のコーヒーと楽の調べに時のたつのを忘れる。といっても、二人はべつに愛のささやきをかわすでもない。はた目には仲のよい愛人たちとも見えようが、まだそれだけのことだった。  ある晩博士は、ふと最初のめぐりあいのことを思い出して彼女にたずねた。 「あなたに最初におあいしたのは——斎木さんのところでしたね。あなたのお父さんが、何か法律問題のことで、斎木さんに御相談なさっていましたが、僕は先生のような科学者でも、法律のことなんかに関心をお持ちなのかとびっくりしてしまった」 「実際の問題ではございませんの」  雪子は黒い眼を伏せて答えた。 「父は小説を書いておりますの。人さまにお見せするようなものではないと、自分でも申しておりますが、その中で、何か問題にぶつかったのでございましょう」 「小説? どんな小説です?」  思いがけない回答にびっくりして、博士はたずねた。 「探偵小説だと申しておりますわ」 「探偵小説ですか」 「軽蔑《けいべつ》なさいますの?」 「とんでもない。ただ、先生のように、科学のほかには、何のことにも興味などお持ちにならないようなお方が——と思うと、ちょっとびっくりさせられました。でも、探偵小説というものはふつうの文学修業を積んで来た人より、門外漢のお医者や科学者や法律家などの中から、大成する人物が出るようですから、先生のお作だって、歴史にのこるような大傑作かもしれませんね」 「まさか、それほどのものではございませんでしょう。あんな、氷のような父でも、若いときには、ずいぶん、人なみ以上に激しい性格だったと申します。火が燃えて、そのまま氷の中にとざされてしまったのかもしれません……その思い出を、何かの形で残しておきたいのだろうと、わたくしは思いますの」  創作心理としてはうなずけない過程ではなかった。殿村博士は雪子の父のこの性格に、いよいよ深い尊敬をおぼえた。彼が父親の老院長にむかって、雪子と結婚したいという意志をもらしたのはこの夜のことである。  一も二もなく承知するかと思いのほか、父は強く首をふった。 「わしは今まで、おまえのすることには、べつに反対したことはなかった。若いものには若いものの考えがある。年寄りが干渉すべきことではないと思ったから、おまえが医者になることさえ、べつに強《し》いはしなかった……だが、これだけはやめてほしい。この結婚ばかりはわしの眼の黒い間は、賛成できないことだ」 「どうしてでしょう?」  思いがけないこの反対に、殿村俊一はわれを忘れた。 「結婚というのは一生の大事だ。本人がりっぱな女性であることも必要な条件だが、その家、その両親——あらゆる要素を考えにいれておかないと、とかく不幸な結果をまねくことになる」 「でも上野さんの家だったら、りっぱな家だと思いますが……」 「金があるだけでは、りっぱな家とはいえない。あの父親は変人だが、まだいいとして、あの母親のことをおまえは知らないだろう。生まれたばかりの乳飲児を捨てて、愛人のところに出奔《しゆつぽん》して二十年……おまえが知らないのも無理はないが、そんな母親の娘など、この殿村家に嫁として迎えるわけにはいかん」     四  一概に、時代の相違、新旧思想の対立だとばかり、かたづけてもしまえないことだった。口を酸《す》っぱくして口説《くど》いても、父は頑《がん》として折れなかった。日ごろは春風|駘蕩《たいとう》として、何の毒もない好好爺《こうこうや》の父に、どうしてこんな意地があったのかと思われるような反対ぶりだった。しかし彼はあきらめようとはしなかった。しばらく冷却期間をおいて、もう一度切り出せば、必ず納得させられると信じたのである。だが、その前に事態は急転した。この上野家の秘密を握っている謎《なぞ》の人物が、彼の眼の前にあらわれたのは、それからわずかに二日後のことだった。  いつものように、キャスリーンへ博士がはいってゆくと、雪子はまだ来ていなかった。そのかわりに、五十がらみのこの男が、剃刀《かみそり》のような殺気をたたえた眼で彼の顔を見あげ、 「殿村先生ですね?」  とたずねて来たのである。 「そうです」  あるいは患者の一人だったかと、博士は記憶の糸をさぐったが、どうしても思い出せなかった。毒のある顔——明らかに敵意をこめた眼差《まなざ》しだ。しかしたしかに、一度もあったことはない。 「雪子さん……上野雪子さんのことについて、先生にお話したいことがあります」 「うかがいましょう」  憤然として、博士はその男の前の椅子《いす》に腰をおろした。 「コーヒー一つ」  とウエイトレスにいいつけて、博士は相手の出方を待った。 「先生、先生はあの人と結婚なさるおつもりですね。およしなさい。それだけは」 「なぜです」 「私は先生のためを思うから、こうしてたのまれもせぬお節介をするのです」 「なにも、あなたの知ったことではないと思うな」  父にたのまれたのかと思いながら、博士はただそれだけいった。 「先生はあの人が、ただの人間だと思っておいでだから、その迷いをさまして上げようと思うだけです」 「ただの人間ではない? それでは何だ!」 「先生……この世の中には、理外の理というものがあります。上野さんが、この二十何年低温実験室へこもって、あまり人にも認められない研究をこつこつ続けているのは、何のためだとお考えです。あの人の名前を、どうお考えです。あの人はこの世の女ではないのです」 「嘘《うそ》だ!」 「嘘だとおっしゃる……先生は恋に眼がくらんでいらっしゃる……あの怪物の、幽鬼の住家をごぞんじないのだ。むかしから、蛇性の淫《いん》——といういいつたえもある。妖怪変化《ようかいへんげ》が美しい女の姿となって、男の心をたぶらかすことは珍しくもないのです」 「やめたまえ!」 「そんなにおっしゃるのなら、証拠をお見せしましょうか。氷の中に何がある——とあの人にたずねてごらんなさい。もし、そのときのあの人の顔色でも、わけがわからないようなら、いつでも証拠をお見せしましょう」 「あッ!」  いつのまに来ていたのか、雪子が二人のそばに立っていた。この言葉を立ちぎきしたのか、とたんに顔色をかえ、身をひるがえして、外へとび出して行った。 「雪子さん!」  あわてて、殿村博士もとび上がった。はいって来たお客をつきとばして、夜の闇《やみ》の中に、いま消えた美しい人の姿を眼で追った。  駅の近く、ガード下の暗闇の中に、雪子はたち、両肩を大きく波うたせてすすり泣いていた。 「雪子さん……」 「もう何もおっしゃらないで……」  俊一が側《そば》へ近よると、雪子ははっとしたように飛びのいた。 「わたくしはたしかに魔女です。あなたとはそいとげられない魔性の女です」 「何をいうのです。あなたはいったい……」 「もう何もおききにならないで、もうお捜しにはならないで、あなたにお目にかかるのも今晩かぎり、わたくしは今夜から姿を消します」  呆然《ぼうぜん》とたたずんだ彼の眼の前から、風に乗ったような速さで、雪子の姿は消えてしまった。 「あ……」  わけもわからず、悲痛な呻《うめ》きをあげた彼の背後から、あの謎《なぞ》の男のふしぎな言葉がきこえて来た。 「消えたでしょう。私のいうとおりに……あの人は、氷の中へ消えたのですよ」     五  半信半疑の状態を通り越して、この謎《なぞ》の男の言葉が、鉛のような重さを持って、彼の心にのしかかって来た。  男は浅山|寛《ひろし》と名のった。本名か仮名かわからない。しかし上野家に起こっている出来事は細大もらさず知っているようだった。  その翌日も、翌々日も、それからずっと、彼は雪子をキャスリーンの店で待ちつづけ、しかも手を空《むな》しくして帰るほかはなかった。胸が眼に見えない締め木でしめつけられるように苦しかった。電話を思いきってかけてみたが、お嬢さまは旅行中でございます。いつお帰りか存じません——と、女中にはねつけられたのがおちだった。  一週間の日がすぎた。きょうこそは——とかすかな望みをいだいておとずれたキャスリーンの店に、今夜も雪子の姿はなく、あの謎《なぞ》の男が嘲《あざけ》るようなうすら笑いを浮かべて坐《すわ》っていたのである。 「先生、まだおあきらめにはならないと見えますな。それにお顔の色がわるい。だいぶお苦しみのようですな」  その言葉に反発するだけの勇気もなくなっていた。べたりと崩れるように、男の前に腰をおろすと、彼は血を吐くようにたずねた。 「教えてください……どうしたんです。あの人が氷の中に消えてしまった。この世のものではないなんて、とても僕には信じられない!」 「ほんとうだからしかたがありません。あなた自身、その耳であの人の口からおききになったでしょう」 「でも……」 「まだ迷っているんですね。お気の毒に……証拠を見せてあげなければ、信用できないとおっしゃるんですね」 「見せてください。あの人にもう一度あわせてください。あなたは何もかもごぞんじのようだ。お願いします。このとおり……」  相手もまた、恋に狂った博士の態度に心を動かされたようだった。 「今晩おそくお電話します。上野家から往診に来てほしいといって……そうしたら、あそこの家の前まで来てください。そこで証拠をお見せしましょう」  電話は二時すぎにかかって来た。しかし深夜の往診というのは医者には珍しいことではなかった。上野家の前に、この男は待っていた。博士の顔を見るなり、一種異様なふくみ声で、 「とうとうやって来ましたね。でも今晩の冒険は命がけだが、それでも後悔はしませんか」 「何でも」 「それでは、私といっしょに、氷寒地獄の底までついていらっしゃい」  自分の行為が、法律的にはどんなことになるか——家宅侵入罪か、それとも窃盗《せつとう》罪にとわれるのか、殿村俊一には考えてみる余裕もなかった。このあたりの住宅は、庭にしのびこもうとすればなんの雑作もない。生垣《いけがき》の間をくぐって、あの低温実験室の建物の前に立つと、謎《なぞ》の男は合鍵《あいかぎ》をとり出して鉄の扉《とびら》を開けた。  一瞬、凄《すご》い寒気が身にしみた。もう秋なので、冷却装置は夜は動かしていないらしく、ただ保温壁の作用にまかせて、温度の上がらないように保っているらしいが、二重になった入口の、中の扉を開いたときには、まるで全身の血が凍りつく思いだった。  謎の男は、スイッチをひねって電灯をともした。部屋は五、六坪《つぼ》の広さだった。大きな机の上には、硝子《ガラス》器具や薬品やいろいろの試験器具がならべてあった。 「零下十二度……相当な寒さですね。しかしこの床や器具をごらんなさい。たいへんな埃《ほこり》——研究といってもほとんど手もつけていないようでしょう」  彼もうなずかずにはおられなかった。研究といっても、ほとんど名ばかりなのに、どうして低温を作るのだ。こうして零下十何度という寒さに、この建物を保っておかなくてはならないのだ。 「さあ、ごらんなさい」  実験器具をいれている戸棚の中に手を入れて、男は何かさぐっていた。と思うと次の瞬間には、戸棚が壁ごと横に動いた。そしてその後ろにひそむ、奇怪な美女の姿を見たとき、殿村博士は思わずあっと叫びをあげた。  巨大な氷塊——六尺ほどの高さを持つ四角な氷柱が、壁の後ろにかくされてあった。  花氷!  その中に包まれているものは決して花ではない。雪子だ、一糸まとわぬ雪子なのだ。  七彩《しちさい》に輝く氷の中から、雪子は博士の方を見つめて、かすかに笑った——と見たのは彼の錯覚だった。ふたたび氷を見つめると、この美女の顔は苦痛に歪《ゆが》んでいた。その首すじには赤紫の条痕《じようこん》が、まざまざと浮かび上がっていたのである……。     六  どこをどうして逃げ帰ったのか、殿村博士はおぼえていない。だが、朝になって、上野義明が誰《だれ》よりも早く診察室へあらわれたときには、魔法使いにでもあったように、全身がこわばりついてしまった。 「お忘れものです。あなたの」  黒皮の往診|鞄《かばん》を机の上において、相手は一言つめたく言った。 「これが……」 「昨夜、私の家へ、低温実験室へ、雪子の診察に、おいでになったと見えますね。そのときお忘れになったのでしょう」  たしかに、それに違いはない。往診という目的で出て行ったから、カムフラージュに鞄はもちろん持っていた。だが、それを忘れてしまったほど、彼は逆上していたのだ。 「見ましたね。あの氷を……氷の花を!」 「…………」  狂ったような眼の色だ。いまにも、その両腕が左右から首を絞めつけて来そうだった。声をあげて救いを求めようにも、ぜんぜん声が出てこなかった。 「あなたのしたことを、表むきにすれば、家宅侵入罪だが……どうして、あの秘密に気がつきました? さあ、そのわけをうかがいましょう」 「僕の罪は罪でもかるい。あなたの罪は、それよりずっと重いはずだ」 「私の罪……とんでもない。法律では、人間の手では私の罪は裁けません、私は科学と愛情のために一生をささげた。私に罪が残っているとするなら、それを裁き得るのは、ただ神様があるだけだ」  食いいるように、上野義明は殿村の眼を見つめて来た。 「あなたのお答え一つでは、不問に付してもかまいませんが、このことは誰《だれ》にも話さないと誓っていただけますね」  その言葉は脅迫に似ていた。もしこの秘密を誰かにもらしたら、命をもらうぞといわんばかりだった。 「僕がだまっているとしても、秘密を知っているのは、僕だけじゃない」 「だれです。ほかには……」 「浅山寛という男が僕に秘密を打ちあけて……」 「あいつですか。わかりましたよ。この間から、この秘密をたねに、さんざん金をゆすりに来て、うるさいので、どうでもしろとつっぱねてやったら、あいつ、妙なところで、仇《かたき》をとろうとしたんですね」 「仇を……」 「そう、昭和の初めごろの仇を今時分……」  かすかな吐息をもらして、 「あなたはそれほど雪子を愛しておられるのですね? 人の家へ夜中にしのびこむ。博士でもあり、人間としても非の打ちどころがないあなたが、そのような罪をおかしてまで、雪子の安否をたしかめようとなさるとは」 「あたりまえです!」  涙といっしょに、血を吐くような叫びが喉《のど》からほとばしり出た。 「とうぜんです、そのことは。たとえあなたが父親でも、何の罪とがもない娘の命をとるというのは、断じて許されないことだ。僕は戦う、戦います。たとえあなたに殺されようと、雪子さんをもどしてくれなければ、僕は断じて、あの人の仇をうって見せる!」 「ただ、それだけのことでいいのですか。雪子をよびもどせばいいのですか」  相手の言葉は、殿村の知覚をしびれさせるような、狂わしいつめたい響きを持っていた。 「そんなことできますか!」 「できますとも……あと二日、待っていただければ、雪子はかえってくるでしょう、きず一つない、清い体で……」 「二日……二日待てばいいのですね」 「そうです。二日もかかりますまい」  上野義明の目には初めて人間らしい光がかえってきた。 「この二日に、どういうことが起こるか知れませんが……もし、雪子があなたのところへ帰って来たら、大事にいたわってやってください。愛というものは、わずかの命しか持っていません。朝ひらき、昼には短い一生を終える朝顔のようなもの……ほんの一瞬の機会を逃がすと、その花は火から氷の中に永久に消え去るのです……」     七  それから二日——殿村博士は、まるで夢遊病者のような日をすごした。患者もほったらかして飛び出し、野良犬のようにあてもなく東京中をさまよい歩いた。夜になると、家の近くまで帰って来たが、ほとんど夜通し、上野家のまわりをうろつき回って過ごした。  もう一度、あの実験室へしのびこむだけの勇気は、とても湧《わ》いてこなかった。上野義明はもう一度、雪子を帰してくれると誓った。一時のがれの言葉とは思えなかったが、死んだ女を、絞殺されて、氷の中にとじこめられたこの死体を、どうしてよみがえらせようとするのだ……いや、そういえば、雪子はどうしてこの世へやって来たのだろう。自ら魔性の女といい、彼を愛しておりながら、そいとげられぬとさびしくいった……その秘密はいったいどこにひそんでいる?  ありとあらゆる妄想《もうそう》が、頭に渦《うず》まき、火のように燃え、彼の意識を狂わせた。  そして二日目の夜、何度かさびしい屋敷町を歩きまわって、上野家の近くにひっかえしてきたときに、彼は薄暗い街灯に照らされて行く雪子の後ろ姿を見たのである。 「雪子さん!」  と呼びかけようとした声が、喉《のど》の奥のどこかにこびりついてしまった。その瞬間、暗い物かげから歩み出て来た一人の男が、ぐっとその片腕をおさえたのだ。  あの男! 浅山寛と自ら名のった謎《なぞ》の男! 「あっ、あなたは! 何をなさるんです!」  雪子もひくく、聞こえるか聞こえないかの悲鳴をたてた。 「何をなさるかはないでしょう、私はこの機会を、二十年も待っていたのだ」 「二十年……」 「そうだ。私はあなたのお父さんの秘密を、二十年前には気がつかなかった……それに気がつきさえすれば、かんたんに息の根をとめることもできたのに、ね。でもおわかりでしょう。私の気持が……私は彼女の姿を、あなたに見いだした。あなたのお父さんに、あのような罪が許されていいなら、私にだって、この事件のために堕落《だらく》し、こんな前科者となった私にも、あなたを手に入れるくらいのことは、とうぜん許されていいはずだ……」 「殿村さん……」 「何をいう。あの男の名を呼んでもむだだ。彼は私といっしょに、あの部屋へ——氷の地獄へ行っている。そして、恐れをなして、震え上がって逃げ出した……もう、彼はあなたのことなど、考えてもいないだろう。氷の花、氷の中からよみがえって来た女だとばかり思いこんで、たとえもう一度あったとしても、あわててその場から逃げ出すだろう」 「…………」 「おまえは永久におれの物だ。おまえの父の秘密を守る手段はそれしかない!」  殿村はこの瞬間、われを忘れて、物もいわずにとび出すと、いま雪子の体をだきすくめようとしている男の体を捕えて、横につきとばした。 「誰《だれ》だ! 何をする!」  相手も野獣のようだった。暗さと不意をうたれたのと、その情欲が満たされなかったことに、眼がくらんでしまったようだった。間髪をいれずに、殿村の体に武者ぶりついて来て、しばらくは上になり、下になり、必死の争いがつづいた。  ついに若さが勝利を占めた。  相手が完全に気を失って倒れたのを見て、殿村博士はよろよろと立ち上がった。顔はべっとり鼻血に濡《ぬ》れ、体中が神経痛のように痛んだ。 「殿村さん」  雪子は眼を見はり、大きくしゃくりあげ、彼の両手に体を埋めた。 「雪子さん……」 「おけがは?」 「僕のことなら大丈夫——なに、この相手だって死んじゃいません。それよりあなたはどうしたんです。どうして、あの氷の中から」  答えはなかった。いや、その瞬間、上野家の中から聞こえて来た一発の銃声が答えといえば答えであった。     八  上野義明は、ソファーに腰をかけたまま、手にした拳銃《けんじゆう》の銃口を口にくわえ、自分の頭を撃ちぬいて死んでいた。  もう、何の手あても効果のないことが、殿村博士には一目でわかった。 「お父さま!」  その膝《ひざ》にとりすがって泣きくずれる雪子に、いたわるような視線を投げ、博士は机の上においてあった白い角封筒——上野義明の遺書をとりあげた。 「雪子よ、父の罪を許せ。  父の罪は、もはや人の作った法律で裁かるべきものではない。殺人の罪も十五年たてば時効が成立する。たとえ死体が発見されても、二十年前に行われた殺人を、検事はなんともできないのだ。  だから、かつての母の愛人、あの浅山寛という男があらわれて、父を脅迫にかかったときも、わしはそのまま一笑に付した。秘密を発《あば》くというなら発くがよい。断じて母と娘と二代にわたって、おまえのような動物の毒牙《どくが》にかけるわけには行かぬと、断乎《だんこ》その脅迫を拒絶した。  おまえの心が、殿村君に傾いていることを、父はちゃんと知っていた。殿村君はりっぱな男だ。必ずおまえを幸福にしてくれるだろうと父は信じた。近く、人を介してでも、この結婚を申し出ようかと考えていたところだった——だが、浅山が殿村君の心に毒をふきこもうとは、父も思ってみなかった。この秘密をもらそうとは、この実験室にまで彼をつれて来ようとは、父も思ってはみなかった。だが幸いに彼はまだ、おまえのことを忘れてはいないようだ。すべての秘密を打ちあけてわが罪を天に謝し、人に謝すれば、殿村君はすべてを認めておまえを迎えいれるだろう。思えばこの二十年、父の苦労はなみたいていのものではなかった……罪の発見を恐れる恐怖、そしてあの困難な戦時中、夏でも冬でも、氷が溶けない低温に、あの研究室を保っておかなければならないという心労が、父の、白髪《しらが》の数を増やし、肉体を綿のように疲れさせた。  思えば二十年の昔になる。低温における金属の性質の変化——という大問題にとっくんで、夫婦生活さえ顧《かえり》みることのなかった父に耐えかねて、母の心にも、かすかな迷いが生じたのだろう、人としてやむを得ぬ誤ち——と今になって、父は自分の非を悔いる。  母は浅山のもとへ走った。典型的な犯罪者ということも知らずに——そして、その正体を知ってから、深夜ひそかに父のところへ帰って来た。誰《だれ》一人知れずにこの実験室を訪れて来た。  激情が父を襲った。我に返ったときには、母は死体となって父の足下《あしもと》に横たわっていた。  父はその罪を自白して裁きを受ける勇気がなかった。ふと、アルプスの氷河に転落したものは、何十年となくそのままに埋もれている。氷河がゆるやかに麓《ふもと》に流れついて、氷が溶け切るまで、生前と同じ若さを保っている——という話が、父の心を捕えた。  父はそのまま母の死体を氷結させ、できるかぎりの年月の間、この罪の発覚する日まで、母の死体を守りつづけようとした。  狂わしい愛といわばいえ、愛情とは狂わしいものである。一瞬の過失を、人は永久に一生を費やしてつぐなわねばならないものなのである。  幸いに、この秘密をさとる者もなかった。浅山寛が、別に殺人の罪をおかして、無期懲役をいいわたされたということを、新聞で目にしたときには、法律上、減刑というものがあるなどとは考えてもみなかった。彼がいま一度、父の目の前にあらわれてこようなどとは夢にも思ってみなかった。  そして今度の事件が起こった。母を殺したということに対しては、父を許してくれたおまえも、殿村君からはなれて行かねばならないということについては、父を許せなかったかもしれぬ。いったん岡山の叔父《おじ》のところへ身をかくすように命じたのもほかではない。この間に、殿村君に秘密を打ちあけ、破局を回避しようと思ったからなのだ。  しかし父には、それを口に出す勇気がなかった。二十年——死体といっしょに、この秘密が、心に凍結してしまったのでもあろうか。  いや、たとえこの秘密を、殿村君が理解し、父の心情に同情してくれたとしても、もうこれ以上、氷の中の母とともに、生活することは許されないだろう。  いまこそ最期の時が来た。氷の中の不朽の若さ、死とともに存在する生に、直面すべき時が来たのだ。  おまえの帰って来るまでに、父は二十年溶けることのなかった氷を、溶かしにかかるつもりだ。そしてその若い唇に口づけし、そのつややかな手を握りしめ、その耳に名をささやいて、今度はともに、炎の中へつれだって行くつもりなのだ」  殿村博士は、大きな吐息とともにその遺書を雪子の手にわたし、その体を抱きしめて、白いうなじに口づけし、庭へ出て、あの実験室の扉《とびら》を開いた。  寒気は、いつのまにか去っていた。氷の花は氷を出て、その中に持ちこまれたソファーの上に坐《すわ》っていた。  二十年の年月を経て、この母は、雪子と同じ若さと肉体を持っていた、雪子と見まがうその死顔を見つめて、博士はひくくつぶやいた。 「お母さん、私もお父さんの罪を許します」  薔薇《ばら》の妖精 「あなた方は、妖精《ようせい》というもののこの世にいることを信じておいでですか」  毎月一度、きまって私たちの訪れる、久島久夫氏の、フランス風の広い応接室で、パチパチとやわらかに燃え上がる、煖炉《だんろ》の薪《まき》の火に手をかざしていた、主人の久島氏が、半白の眉《まゆ》をピクリと上げてたずねた。  実業界で、幾多の大失敗をくり返しながら、七転八起の諺《ことわざ》をそのまま、その度《たび》に再起して、遂に功成り名遂げた形の、この老富豪の鋭い鷲《わし》のような眼にも、その時は、かえり来ぬ青春の夢を追わんとするような、やわらかな光がこもっているのだった。大きな薄い唇の端には、悪戯《いたずら》小僧のような、かすかな微笑が浮かんでいた。  何と答えたらいいものか、私たちは言葉に困った。 「そうですね。西洋の昔の伝説には、よく出て来るようですが、日本にはいたという話はあまり聞きませんね」 「ところが、私は一度、ある妖精《ようせい》にあったのですよ。そして話をしたことがあるのですよ」  それは満更、冗談とも思えない調子だった。 「それは幽霊とはちがうのですか」  私の横の椅子《いす》に腰をかけていた、若い洋画家の、棟田《むねた》宗太郎が、パイプに煙草《たばこ》をつめながらたずねた。 「いいえ、幽霊というものは、死人の霊魂が、成仏しきれずに、この世にたずねて来るのでしょう。妖精というのは、それと違うのです。たとえば花の精、水の精、家の精というものが、人間の形をとって現われたとでもいいましょうか。だから別に、幽霊や化け物のように、人に祟《たた》りをなすわけでもありませんし、恐ろしい地獄の有様を物語るのでもないのです。人の心をほのぼのと暖かくさせるような、美しい、ふしぎな話をして、また跡もなく消え失《う》せるのですよ」 「それで、久島さん、あなたがお会いになったというのは、いったい何の妖精でした」 「美しい紅薔薇《べにばら》の妖精だったのです。それはこの上もなく、清純な乙女の姿をしていました」 「いかがです。久島さん、そのお話を、私たちに話していただけませんか」  私は胸の中にはげしく湧《わ》き上がる好奇心をおさえかねて、つい口をすべらせてしまっていた。 「そうですね。こんな老人の昔話を、いくらかでも興味を持って、聞いていただけるなら、私も喜んでお話しいたしましょう」  窓の外には、はげしく吹きすさぶ、木枯しの響きが狂い廻《まわ》っていた。だが室内は、早春の夜のような、やわらかな、ほのぼのとした暖かさに満ち、静かな部屋の空気を破って、この白髪の老人の、重味のあるバリトンは、美しい夢を虚空《こくう》に描き出して行った……  今からちょうど、十年ほど前のことです。私は神奈川県の、ある海水浴場で、一夏を過ごしたことでありました。  私はその直前に受けていた、事業上の打撃からようやく立ち直って、その時は財政的にも大分余裕も出来ていました。それで三十年前の思い出の地だった、この海岸へ、ふたたび訪れる気になったのです。  何も彼も、すべては様子を変えていました。むかしは、さびしい一漁村に過ぎなかった、この土地も、いまは立派な別荘や、ホテルや旅館も立ち並び、すっかり変わりはてていました。もちろん、私の顔を知っている人々も、いつの間にか、死んだり、老人になってしまったり、自分も年をとったものだと、つくづく考えさせられたのです。  私は、一軒のある大きなホテルへ宿をとりました。いくらか、その当時、名前も人に知られていましたので、一番いい部屋を当てがわれて、何をするともなしに、ぶらぶら毎日を送っていたのです。  暑いといっても、泳ぎのできるような齢《とし》ではありません。小舟を出して、釣《つ》りをするのが、私には精一杯の楽しみでした。  ある夕方のこと、風のよく凪《な》いだ沖合に舟を浮かべて、舷《ふなばた》から糸をたれていた私は、あまり魚が食わないので、つい厭気《いやけ》がさして、ふり返って岸の方を眺めました。そして岬の上の林の中に立っている、ふしぎな家の姿を眺めたのでした。  私が五十年の生涯にまだ見たこともないような、壮麗な夕焼けでした。紫金の、朱色の、鶸色《ひわいろ》の、七彩《しちさい》の鯖雲《さばぐも》、綿雲、鱗雲《うろこぐも》が、大空をあるいは高く、あるいは低く、大きな虹《にじ》を澄み切った海の水に溶かして、西の空一面に、ぼかしたのかと思われる、美しい中空の色彩でした。  それだけに、その夕雲を背景にそそり立つ灰色の建物は、何と見事な対照を示していたことでしょう。何の色彩も装飾もない、単色の銅版画のような廃墟《はいきよ》は、背景の夕焼けが美しいだけに、全く印象的な眺めでした。  廃墟——という言葉は、当たらなかったかも知れません。まだ持ち主もあったのです。この家を去ってから、そんなに日も経《た》っていなかったのです。だが、青春の夢をなお、全く失いつくしていなかった、私にとっては、それは永遠の廃墟かと思われました。  色は単色だったかわり、形は数寄《すき》を凝《こ》らしていました。  明らかに、西洋の古城を模しているのです。高くラインの断崖《だんがい》に聳《そび》える、独逸《ドイツ》中世の城砦《じようさい》建築にかたどったのです。  ぎざぎざの、鋸《のこぎり》の歯のような障壁もありました。物見台、望楼も昔の様をそのままでした。いや、建物の片隅には、八角の高い塔さえあったのです。  これで千仞《せんじん》の断崖の上に、黄金の髪を櫛《くし》けずる、半裸の乙女がおったなら、そしてまた、世にも妙《たえ》なる歌声に、舵《かじ》をあやつる舟手の小耳を傾けさせたなら、人はその身も世にあらぬ、怪しい幻想の虜《とりこ》とならずにおられぬでしょう。いつしか、波濤《はとう》万里を越え、異国の清流に舟を浮かべて、ローレライの妖女《ようじよ》の歌を聞くのかと、ふしぎな錯覚に陥らずにはおられぬでしょう。  いや、妖精は、たしかにその時、古城の上に現われたのです。  五十年の生涯に、私が初めてと舌をまいたほど美しい乙女でした。黄金ならぬ、緑なす豊かな黒髪を、そよ吹く夕風になぶらせながら、燃え上がるような紅《くれない》の衣裳《いしよう》をまとい、白蝋《はくろう》のような繊手《せんしゆ》をひるがえして、塔の上から、海の彼方に、今しも没せんとする夕陽《ゆうひ》を見守る姿は、そのまま一幅の名画でした。自然の美と、人工の美の、あやしくも調和し、競《きそ》い合うこの光景に、魂をこめ、ほのかな息吹きを通わせたのです。  私はこの瞬間の思い出を、死ぬまで忘れることは出来ないでしょう……  夕闇《ゆうやみ》のいつしか垂れこめて来た海岸に、舟をかえした私の心は何となく重いのでした。それでいて、一方では、急に二十も年が若がえったように大声を上げて、誰《だれ》もいぬ砂浜を走り廻《まわ》りたいような、ふしぎなふしぎな、気持なのです。  ホテルへ帰って来た私は早速ボーイに何知らぬ顔で、その建物のことをたずねて見たのです。そしてこのような事実を聞いたのです。  この建物は、三十年前に、ある気まぐれな金持が、当時としては莫大《ばくだい》な財を投じて建てたのだということでした。そういえば、私が初めて足をこの海岸に印《しる》した時には、この建物はもちろん影もありませんでした。その男は、その後間もなく事業に失敗して、出来上がった建物にも住むことなしに、人手に渡したのだといいます。  その上に、どうせこんな変わった建築を、企てて実行するような男のことですから、外観ばかりではありません。内部の造作の一つ一つにも、変わった工夫が凝《こ》らしてあるということでした。きっとその男も、あなた方や私のように、若い時には探偵小説でも愛読し、古城に秘められた、財宝のありか探しに、手に汗握った仲間に違いありません。  しかもこの家は、いまはある画家のものになっているが、彼は呼吸器の病《やまい》を患《わずら》い、ここを離れて東京の病院へ入院中でその療養費に困ったので、この建物も売りに出しているとのことでした。  その時の私には、この家一軒、買い受ける位の資力は、十分あったのですし、こんな美しい幻想に満ちた館《やかた》を、自分の物にするということは、何といっても、すばらしいことじゃありませんかしら。  私はその建物の中も見たいと思いました。そしてその翌日の夕方、ちょうど昨日と同じ時刻をわざと選んで、この古城を訪れて行ったのです。  丘の上は一面の赤松の疎林、その中にぽつんと一軒、置き忘られたように立っている、廃屋の姿を眺めた時、私は何となく、涙さえ催さずにはおられませんでした。夢の中でだけ会うことの出来た、心の故郷に、また帰って来た思いでした。  濠《ほり》の水はかれ、ただ夏草が一面に生い茂っています。それをぐるりと一巡すると、思いがけない後ろの方に、小さな橋があるのです。この主人は、よほど警戒心に満ちた、異常心理の持ち主だったのでしょうか。城壁には、いくつもいくつも、小さな覗《のぞ》き穴さえついています。私は笑い出したくなりました。  かがんでやっと入れるくらいの、入口をくぐると、中はどうでしょう。地も焔《ほのお》を吹くのかと思われる、一面の薔薇《ばら》の畑ではありませんか。  主人の画家の丹精《たんせい》になるのでしょうか。それともまた、誰《だれ》かが主人の去ったあとも、念入りに手入れをしているのでしょうか。実に見事な、燃え上がらんばかりの真紅《しんく》の薔薇だけが、地上の楽園さながらに、露を含んで馥郁《ふくいく》と、青春の栄えを讃《たた》えていたのです。  しばらくたたずんでいた私は日の暮れぬうちにと、気を取り直して、その建物の中へ足を運んで行きました。  別に鍵《かぎ》もかかってはいませんから、御自由に、という管理人の話でした。それでいて、硝子《ガラス》一枚、なくなっていないのです。昔は人間も正直でしたね。いや、とんだ年寄りの愚痴《ぐち》ですかしら……。  部屋の一つ一つの隅々まで、変わった、それでいて、繊細《せんさい》な神経が行きとどいていました。たとえば、雨樋《あまどい》ですが、どんな家でも、その外側についているでしょう。ところが、この家では、それが建物の内部を走っているのです。  ホールの片隅には、物凄《ものすご》く立派な廻《まわ》り階段がついています。それを上って行くと、中二階には小さな部屋がたった一つ、その部屋の中央には、青銅の噴水がついています。御叮嚀《ごていねい》に、その噴水一つのために、三馬力のモーターが一つ、別についているという凝《こ》り方です。その下は床を掘り下げて、半分地下室のような書斎。窓から橋がかかっていて、いつでもそこから出入りができるというわけです。  まるで子供が勝手|気儘《きまま》に、自分の夢の通りの建築をしたというような家でした。しかも代々の持ち主は、別に住み良いようになど、手を加えたあとも見えません。私はすっかり嬉《うれ》しくなって、一つ一つ部屋を廻って行きました。  広い廊下を真直《まつすぐ》に進んで行くと、その突き当たりには、六畳ほどの小部屋がありました。高い天窓があるだけの、三方壁のこの部屋の正面の壁には、一枚の肖像画がかかっていました。  油絵の、十七、八と思われる、清純な乙女の肖像です。私は絵の方はよく知りません。しかし、素人《しろうと》の私でさえ、思わず声を上げたほどの、見事な出来栄えだったのです。争えない天才の閃《ひらめ》きが、一筆|一刷毛《ひとはけ》にこもっていました。卵形のよく整った輪郭《りんかく》の、人形のような目鼻は、震いつきたいばかりなのです。口もとは、心持両端に釣《つ》り上がって、いまにも私に微笑《ほほえ》みかけるかと思われるくらい……あの聖母と娼婦《しようふ》の性格を、同時に表わしているといわれる、モナリザの笑いにも似た、永遠の女性の秘密を宿す微笑……これははたして、実在の女の姿の写し絵でしょうか。それともまた、この作者の夢の、幻想の、一つの理想化に過ぎぬのでしょうか。  ——何を見つめていらっしゃいます。  よく澄んだ、若い女の声でした。私は、ぎょっとして、思わず背後をふり向きました。  迫り来る夕闇《ゆうやみ》に包まれて、音もなく立つ女の姿は、その肖像をそのままの姿でした。目も鼻も唇も、いや神秘な微笑に至るまで、何一つ異なる点はなかったのです。濃い藤色の衣裳《いしよう》もまた、胸にさされた一輪の紅薔薇《べにばら》さえも、昼と同じ、まるで大きな鏡の中に、絵を写したか、それともまたこの人を映したのがこの絵かと思われました。  ——この絵は、あなたの肖像なのですか。  ——そうです。お気に召しまして……  女は婉然《えんぜん》と笑いました。まるで夕闇の中に浮かぶ、一輪の白薔薇《しろばら》のような姿でした。  ——これはいったい、誰《だれ》の作です。そしてあなたはどういう人なのですか。  ——まあ、せっかちでいらっしゃいますこと。あなたこそいったいどんなお方なのです。この薔薇荘には、この頃《ごろ》はたえてたずねて来る人もありませんのに……  ——私は、この海岸のMホテルに滞在している、久島という者ですが、この家が売りに出されているというので、気にいったら、ぜひ買いたいと考えて、こうしてやって来たのですよ。  ——そうですの。それは失礼をいたしました。ずいぶん長い間、男の方には、お目にかかったこともありませんので……  かるく私に会釈して、女は足を返そうとしました。その時、私は覚ったのです。昨日ああして、塔の上に立っていたのは、この女にちがいはない。現世の人とも思えない、この美少女でなくして誰であろうかと……  ——失礼ですが、あなたはこの家の持ち主と何か関係のある方ですか。  ——関係があると申せば申せますし、ないと申してもよろしいでしょう。現にこうして、わたくしの仮の姿が、こうしてこの壁にかかっているのですから……  私の心の中には、その時、この美少女の正体をつきとめたいという好奇心が、むらむらと湧《わ》き上がって来たのでした。  ——いかがでしょう。私はこの家を買いたいと思っているのですし、あなたはくわしい事情を御存じのようですから、そのお話をうかがえれば、大変ありがたいと思うのですが。  女は首をかしげて、深い思いに沈んでいるようでした。  ——そうですわね。それではお話しいたしましょうか。でもここは暗くなりましたから、お庭の方へまいりましょう。月も上がって来たようですし、夜の薔薇《ばら》の香りも、なかなかよろしいものですわ……。  私たちは、その部屋を離れて、薔薇園の中のベンチに腰をかけました。折しも、向こうの山の端から、昇って来た満月の光に照らされて、女の顔は、透《す》き通るばかりに、青白く輝いて見えたのです。何十匹の蛍が、すいすいと夕闇《ゆうやみ》を縫って、この少女の肩から腕へ、ふくよかな両腕から腰のあたりまではかない光芒《こうぼう》を曳《ひ》きながら、音もなく泳ぎ廻《まわ》っているのでした。  ——あなたが、あの絵を御覧になって、心を動かされたのも、決して御無理がありませんわ。あの絵を描いた、この家の持ち主は、いまは不治の病床にありますが、若くして、日本洋画界の輝ける明星と謳《うた》われた人でした。  しかしふしぎなものなのです。本当の天才といわれる人はいつの世でも、同じ時代の人々には認められずに、不遇な薄幸の一生を送らねばならないのが、この世の避け得ぬ宿命なのでしょうかしら……  この人も、もっともっと、認められ、名前を知られてもいい人なのです。しかし、あまりにも気が弱く、世わたりなどは全然|苦手《にがて》、人の前では口もきけずに、その上寡作家とあっては、わたくしなどの申すことが、かえって間違っているのでしょうか。  幸いに、この人には、相当の財産があったので、この海岸へ写生に来ていた秋の日に、ふと目についたこの家を、自分の物とするだけの余裕は十分あったのです。  この人は、早速ひとりでこの家に移って来ました。そして病身を養いながら、カンバスに向かってたえず絵筆を握り、その合間には、庭に美しい薔薇《ばら》を植え、一日一日を、この上もなく楽しんでいたのでした。  世に出ようかという野心など、この青年は毛頭持ってはいませんでした。いや、自分の描いた作品を、売ろうという気さえなかったのだといえるのです。  自分の本職ともいうような、油絵さえその始末なのですから、まして道楽に作っている薔薇などは、金にかえるなど、思って見たこともないのです。地味のせいか、手入れのせいか、御覧のように、この薔薇荘の紅薔薇は、この付近でも有名なものになっていました。しかし万金を積んだところで、この青年はその一輪さえ、人に分けようとはしなかったのでした。  あれだけ沢山咲く花を、と、人々の間には悪口をいう者もありました。しかし彼は、けちな金持よ、変わり者の絵描きよ、と嘲《あざけ》られても、だまって笑っていたのです。この孤独な青年にとって、この数多くの紅薔薇《べにばら》の一つ一つは、そのままに、魂の淋《さび》しさをなぐさめてくれる、恋人だったともいえるのでした。  ある夏のこと、その青年は毎晩毎夜、一輪ずつ、大輪の一番見事な花だけが、切りとられているのを知って、愕然《がくぜん》としてしまいました。花盗人の風流を、賞《ほ》める余裕のあるはずもなく、青年はその花を守るため、不寝番をしようと決心したのです。  それは今夜のように、月の明るい晩でした。この塔のかげに、そっと身をひそめ、庭のあたりを見守っていた、青年の耳に、どこからともなく、美しい音楽が聞こえて来ました。  いや、それは音楽などではありません。眠りについたはずの小鳥も、蝉《せみ》、こおろぎ、きりぎりすと、声をあわせて、いつもとは違った歌を歌うのでした。ふしぎな自然のシムフォニーでした。  そのうちに、薔薇の花壇は、大波を打ったように、大きく二つに分かれました。そしてその土の割れ目から、人間の身のたけぐらいありそうな、大きな一輪の紅薔薇が、ぐいぐいと伸び上がって来たのでした……  そして花弁《かべん》は一枚一枚と、飛び散って、その芯《しん》のかわりに包まれていた、一人の女が、しずかに姿をあらわしたのです。  輝くばかりの肌の色、人形のようにかわいい目鼻だち、そしてその身には真紅《しんく》の衣裳《いしよう》をまとっていました。  闇《やみ》の中を見通すばかりの視線を投げて、女は青年の方へ歩みよって来ました。薔薇《ばら》の茂みをかき分けるとき、女の白い右手の小指は鋭い刺《とげ》に傷つきましたが、その血潮がぽとりぽとりと、真紅の珠《たま》と滴《したた》り落ちるところには、どうでしょう。夜目にもしるく、血の色の紅の薔薇が一輪一輪と、黒土を破って咲き出でたではありませんか……  ——あなたがこの家の御主人なのね。わたくしもぜひ一度お目にかかって、お礼を申しあげたいと、いつも思っていましたのよ……  ——お礼だなんて、私は何も覚えがありません。  ——とんでもない。あなたほど、わたくしたちの姉妹を、心から愛して下さるお方は、わたくしもほかにおぼえがありません。  お礼のおしるしに、何でも一つだけ、あなたの望みをかなえてさしあげましょう。お金でしょうか。名誉でしょうか。何なりと、よろしいものを、おっしゃって下さい……  その青年が、何を望んだとお考えです。金も名誉も求めずに、彼はただ、この神々しい妖精《ようせい》に、自分の絵の、モデルになってもらいたいと、ただそれだけを願ったのです。  女は弱ったようでした。  ——それだけは許して下さい。わたくしたちは掟《おきて》によって、人間を幸福にすることは許されていますが、不幸と破滅を招くことは、かたく禁じられているのです。ところが、一方で、わたくしたちの姿をば、ありのまま、地上に残そうという人は、自分の生命を失わなければならないと——これが天上の宿命です。御恩返しをしようと思うわたくしが、あなたを不幸にするなどと、そんなことは、とてもわたくし、忍べません……  だが青年は、もはやこの言葉には、何の耳をもかしませんでした。彼はこの妖精《ようせい》を一目見るなり、はげしい恋に陥ったのです。しかし天上の妖精に、地上の人間が、どんなに思いを焦《こ》がして見ても、それは所詮《しよせん》、星を追う蛍の歎きにすぎません。彼はただ、自分の筆の力によって、この妖《あや》しい乙女の姿を、いつまでも、自分の手もとに、残しておきたかったのでした。  涙をこぼし、足もとの大地に、身を投げてかきくどく、青年の言葉に、女も心を動かされました。  ——仕方がありません。あなたが不幸になられるのは、目に見えて分かっていますが、自分の身を燃えつくさせて、しかもなお、一枚の傑作を仕上げねばならないのが、それが芸術家の避けられぬ宿命なのかも知れませんね。できるだけ不幸を防ぐように、全力はつくしては見るつもりですが……  そういいながら、妖精は画家の願いを聞き入れました。  その翌日から、女はいずこからともなく、青年のもとに訪れて来たのです。そしてモデル台の上に立って、ふしぎな製作が始まったのでした。  この青年も、この一作に、心魂を傾けつくしたことは、いうまでもありません。元来虚弱な彼の体は、燃え上がる情熱の焔《ほのお》を到底養いきれず、だんだん憔悴《しようすい》して行きました。カンバスの上の、女の頬《ほお》の輝きが、次第に光を増すにつれて、男の顔はその画像に、生命を奪い去られたかのごとく、一日一日と青白く、力を失って行くのでした。  時折、絵筆を手から落として、苦しげに咳《せき》こむ彼の姿を見てこの妖精《ようせい》の顔にも、また、憂《うれ》いの影がよぎったのです。  二か月の精魂こめた努力のはてに、この肖像は完成しました。あなたがさっき、御覧になった、あの絵なのです。天才と独創と、青春の喜びと、天上の美と歓喜が、そこに渦《うず》まき溢《あふ》れています。ですが同時に、あの絵が深く、人の心に食い入るのは、その背後に形なく宿り、薄暗くかげっている、死の恐ろしい翼の閃《ひらめ》きではないでしょうかしら……  最後の一筆で、自分の署名を書き終えると、青年は絵筆を投げ、ほっと大きく吐息をついて、モデル台の上の女を招きました。  女も青年と肩を並べて、その絵を無言で見つめていました。あまりにも、鮮やかに描き出された、自分の現世の絵画に、この妖精の目にも思わず、朝露のような涙が宿ったのです。  製作の前に、たった一つ、女が青年に約束させた条件は、自分の体に触れてはならぬということでした。ですが、この時この青年は、傑作の出来上がった喜びに、我を忘れ、誓いを忘れてしまったのです。彼は思わず、衰えきった両腕に、女の体を抱きしめました。  いけません。そんなことをなすってはいけませんわ。  女は必死に抵抗していました。ですが、青年は、女がもがけばもがくほど、その情熱をかきたてられて、その真紅《しんく》の唇に、自分の口を寄せようとしたのです。  あっと、男は叫ばずにおられませんでした。自分の腕の中の女は、その瞬間、煙のように消え失《う》せて、彼は虚空《こくう》を抱くだけ、床の上には、ただ一輪の紅薔薇《べにばら》が、美しく馥郁《ふくいく》と匂《にお》いを放っていたのです。  この妖精《ようせい》の面影を、地上にとどめるものはただ、その一枚の画像でした。生けるがごとく、微笑する、ふしぎな女の姿でした……  青年は、失望と疲労に病《やまい》も重くなり、その上経済力も悪化して、この家からも引きはらい、いまも不治の病に悩んでいます。  ねえ、このお話にも、一つの教訓があるとはお考えになりません。  人間は、あの世のことまで、くよくよと思いわずらうことはないのです。地上を離れ、天上の、自分の手もとどかない、無限の世界に思いを焦《こ》がし、大地から飛び上がろうとするところに、悲劇の種子がまかれるのでしょう。  でもそれが人間の、とりわけ芸術家の、不断の運命かも知れませんが……  つまらないお話を、長々としてしまいました。でもわたくしがいまこうして、あなたの前に現われたのは、一つのお願いがあってのことです。  この館《やかた》の主が去ってから、わたくしたちの生活も、いまは滅び去ろうとしています。このままでは、わたくしの一族は、間もなく死に絶えてしまわなければなりません。  あなたは、おやさしい心を持っておられる方と、わたくしは、一目見たその瞬間にさとりました。  どうかこの邸《やしき》を買いとっていただけません。そしてわたくしたちの面倒を、末長く見てやって下さいません。  そのかわり、わたくしは、かげになり、日向《ひなた》になり、あなたをお守りいたしましょう。昼はお仕事の相談相手、夜は美しいお話をあなたの耳にささやいて、お疲れをお休めいたします。  あなたが、天上に思いを焦《こ》がさぬかぎりでは、あなたの望みは何なりと、わたくし、かなえてさし上げます。  ではまたいつか、お目にかかる日まで、さようなら……  女は静かに立ち上がって、音もなく、建物の方へ歩いて行きました。あまりにも、ふしぎなこの妖精《ようせい》の物語に、しばらく呆然《ぼうぜん》としていた私は、その時はっと気がついて、女の跡を追いました。  女はその時、さっきの廊下を歩いていました。能《のう》の橋掛《はしがか》りを、悪鬼と化して消え失《う》せる美女が、すり足で滑って行くのにも似た、静かな、それで宙を飛ぶような足どりだったのです。  呼びとめる間もありません。女は咄嗟《とつさ》に突き当たりの部屋へ飛びこんで行ったのでした。  その跡を追って、その部屋に足を踏みこんだ私は、どこにもその女の姿を、発見することは出来ませんでした。手もとどかぬ、壁の天窓からさしこんで来る、皎々《こうこう》たる月の光は、真昼のようにこの室内を照らしていました。そして肖像には、明らかな変化が認められたのです……  微笑は前より強く深く、そして印象的でした。両眼の視線もやわらかく、唇は前よりもほころんで、今にもさっきの話の続きを、私に物語ろうとするようでした。  これだけならば、私の気のせいかとも、お考えでしょう。だがたしかに、肖像の胸にさされた紅薔薇《べにばら》は、画面から消え失せてしまったのです。そのかわり、床の上には、青白い月の光に照らされて、たしかに一輪の真紅《しんく》の薔薇が落ちていました。私がそれをとり上げると、その花は私の手の中で、新鮮な、豊かな香気を放ったのです……  久島氏の話は、部屋の隅々まで、静かな余韻《よいん》を引いて終わった。  この後をつづけるとも見えない彼の様子を見て、私は口を開いて、後をうながした。 「それであなたはどうなさいました」 「私は早速、その家を買いとりました。その持ち主の青年も、その金で安心して、病院生活をつづけ、それから二年ほどたってから、恋人の腕にだかれて、最後の息を引きとったということでした」 「それから、その紅薔薇《べにばら》の妖精《ようせい》は、二度とあなたの前に、現われて来ませんでしたか」 「それはね……」  久島氏は、さすがに何となく、口ごもっていた。 「そのエピローグは、わたくしから申し上げますわ」  いつの間にか、久島氏の夫人が、背後に立っていた。夫とは親子以上に年の違う、若い美しい、上品な女の姿がそこにあった。 「百合子。さっきから、ずっと話を聞いていたのかい……」  彼の顔には、明らかに当惑の色が漲《みなぎ》っていた。 「ええ、すっかりうかがってしまいましたの……皆さんも、ふしぎな話だと、お考えになったことでしょうね。しかし主人は決して、嘘《うそ》や怪談をお話ししたのではありません。薔薇の妖精は、たしかにその時、主人の前にあらわれたのです……」 「奥さんは、どうしてそれを御存じなのですか」  私はたずねないではおられなかった。 「だって、その妖精《ようせい》はわたくしだったんですものね。わたくしはその時、画家にひそかな思いをよせていました。何としても、あの家を現金にかえて、療養費を作り、そして安心させて、養生を続けさせたいと、——この人が家を買いたい希望があると聞いた時、わたくしは、あんな大芝居を打ってまで、この人の興味を家にひきつけて、どうしても家を買わせようと思ったのです。この人が、あの年になっても、まだ二十代の青年のように、夢を追い、怪奇と幻想を愛し、冒険にあこがれる性格だということは、どうにか探《さぐ》り出すことができました。それであの、妖精に化けるということを、わたくし思いついたのです……わたくしは、その時まるで子供でした。嘘《うそ》つきの、世間知らずの小娘でした。あの部屋の画像のかかっていた壁は、そのままどんでん返しになって、裏には一つ、秘密の部屋がありました。わたくしは、その壁の裏と表に、二枚の肖像をかけました。どちらも同じ、わたくしの姿……ただ一枚は胸に紅薔薇《べにばら》をさしており、一枚はさしていなかっただけの違いなのです……わたくしは、あの家さえ売れたならば、二度とこの人の前に姿を現わすつもりなど、初めはありはしませんでした。それがいま、こうして皆さんの前に立っているのは、あの建物を、最初に設計し、建築したのが、この人だった、ということを知ったからです。あの壁の秘密をもちろん知っていて、それ以上、わたくしの跡を追おうとしなかった、この人の心が、わたくしをこの人の所へまた舞い戻らせて、妖精としての約束を、人間として実行させた動機なのでした……」  夫人は、その美しい長い指先で、静かに眼を閉じて、ソファーによる、久島氏の白髪をまさぐりつづけているのであった。  金のため、このような老人に嫁いだのかと、内心にかすかな疑惑を感じさせた、この六十の久島氏と、三十に満たぬ夫人の間の秘密が、私には、この時初めて解けたのだった。  初出誌一覧   奇妙なお土産「主婦と生活」昭和四十年十二月   四月馬鹿の殺人「中日新聞」昭和三十四年四/五月   一匹の蟻「小説公園」昭和二十七年九月   犯罪の環「ホープ」昭和二十五年二月   脱獄死刑囚「週刊朝日」昭和三十年十月別冊   火の雨ぞ降る 初出不明   食人金属「講談倶楽部」昭和三十三年六月   妖術師「モダン日本」昭和二十五年一月   廃屋「実話読物」昭和二十四年六月   氷の花「小説の泉」昭和二十九年七月   薔薇の妖精「文芸読物」昭和二十五年二月別冊 角川文庫『妖術師』昭和62年6月10日初版発行